一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教

内田 樹・中田 考

国民国家がいま解体過程に入っている。国民国家とは、国境線があり、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教、生活習慣、伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持ち、相互扶助的なしかたで共生している共同体のことを言うが、その国民国家が崩れ去ろうとしている。過去400年にわたって国際政治の基本単位として機能しているシステムであるが、そもそも無理のあるシステムであったからというのがその理由。同一の言語や宗教、生活文化を共有していた集団を人為的な国境線を引いて分割して強引に住み分けをさせ、“外国人”となってしまった人には住む権利がないとして追い立てたりもした。こうした経緯が国民国家が解体していく要因となり、それに代わって新たな「支配者」と「被支配者」の階層社会が生まれ、勝ち組のみが豪勢な暮らしを謳歌できるグローバリズムの跳梁を助長する。この流れが日本を完全に覆い尽くしたとしたらどうだろう。私たち日本人は日本という国民国家の外枠を失ったら、「同胞」という概念を維持することができなくなり、ひどく孤独で利己的な「祖国なき民」となってしまうのではないだろうか。

この「同胞」という意識は本来、同じ国のパスポートを持っているからという理屈では成り立たない、もっと広大で包容力のある意識ではなかったか。それは、相互扶助・相互支援のネットワークが構築された運命共同体に共に所属しているという意識であり、精神的な意味合いにも敷衍しうる意識であるとも言えるだろう。農耕民と遊牧民の違いを考えてみるとわかりやすい。典型的な定住型農耕民である日本人は、自ら開拓した農地で収穫される食糧を確保できるため、緊急時に瞬時に判断を下す絶対的なリーダーを必要としない。災害時などは村の衆が集まり車座になって対応を検討するくらいだ。それに対し、イスラームやユダヤ教が生まれた風土は、農耕に適さず頻繁な移住を余儀なくされるため、生命の危険も多いし食糧も安定しない。遊牧民とならざるを得ない彼らにとって、決断力のあるリーダー(神)とそれに付き従う民(羊)という構造が生まれるのは必然であった。そこから、遊牧型の社会では「成員たちは一個の共同的な身体を形成している」という強い意識が芽生え、イスラームでは富める者が喜捨をすることが当たり前となった。こうして生まれたイスラームやユダヤ教といった一神教の宗教は、私たち日本人から見ると戒律が厳しいだとかストイックで怖いなどの感想を抱いてしまうが、運命共同体を維持し成員が無事に生活していくことを目的としているので当然のことであるし、むしろ人間の生身に近いところから発想しているからだと考えることができる。

イスラームに限って言えば、どんな人種でどんな言葉を話しどこに住んでいようと、世界中のどこのモスクでも「アッラー・アクバル」と唱えることができる。イスラームとは、スンナ派やシーア派といった宗派の違いはあれど、ひとつの運命共同体であるからだ。そこには、イスラームであれば困っている他のイスラームを助け、恩恵を共有しようという相互扶助の精神が息づいている。だが、西欧社会が無理やり引いた国境線のおかげで中東の産油国とアフリカの非産油国が作り上げられ、本来であればイスラーム同士で貧富の格差を埋めるべく分かち合わなければならないのに、人工的な国家という枠組みが邪魔をして成立しなくなってしまっている。こうした視点から、かつてのイスラーム圏が持っていた連帯と相互扶助のシステムを復活すべく、共著者の中田考氏はカリフ制を再興することで秩序ある生き方を甦らせたいと語る。

一見すると、宗教についての深い知識がないと話の内容についていけないそうではあるが、内田樹氏と中田氏の対談は非常に洗練されていながらも噛み砕かれていてわかりやすく、いったん読み始めると止まらなくなってしまうほど面白い。それでいながら、思想家としての両氏特有の社会の見方がふんだんに盛り込まれており、勉強になるところ多かった。特に、グローバリズムがイスラーム社会を取り込もうと画策する背景についての熱論は必読だろう。ただ、私の理解不足で消化不良なところもいくつかあった。これを期に、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教についての知識を深め、もう一度読み返してみたいと強く感じた。


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