蒼海に消ゆ 祖国アメリカへ特攻した海軍少尉「松藤大治」の生涯

門田隆将

アメリカ・カリフォリニア州サクラメントにて、日系二世のアメリカ人として生を受けた松藤大治。頭脳明晰の秀才であるだけでなく温厚な人柄により誰からも慕われた松藤は、剣道やボーイスカウトに明け暮れる毎日を過ごしながら現地のジュニア・ハイスクールを卒業。日本に戻り福岡の糸島中学校に編入する。180センチの堂々たる体躯だけでも九州の片田舎は一目置かれる存在だったが、それよりもっと注目を浴び糸島中に松藤ありと轟かせたのは、向かうところ敵なしの剣道の腕前だった。それに加え、学業でもつねに学年トップクラス、人のよい笑顔が印象的な好青年。松藤の周囲には自然と仲間が集ってくるようになった。そして、超難関校で知られる東京商科大学(現在の一橋大学)に入学。抜群の語学力と明晰な頭脳で勉学に邁進する一方、ここでも剣道の達人として腕を鳴らしていた。しかし、そんな中、大東亜戦争の戦火は着実に本土へと迫りつつあり、学徒出陣の波はついに松藤が学ぶ東京商大にも及んだ。アメリカ国籍を持つ松藤は日本軍の招集に応じなくてもよいという選択肢を持っていた。だが、松藤が選択したのは日本人として日本のために殉じるという生き方だった。

松藤が出征したのは、日本が負け戦になりつつあることを情報統制下の日本国民も口に出さずとも感じていた時期。1943年2月、日本軍がガダルカナルから撤退し、4月には聯合艦隊司令長官の山本五十六が戦死、5月にはアッツ島守備隊が全滅。新聞に「玉砕」という文字が当たり前のように掲載されるようになった頃だ。「日本は戦争に負ける」。アメリカの強大さを知る松藤にはこの戦争の帰趨がわかっていた。「でも、俺は日本の後輩のために死ぬんだ」。海軍航空隊に入隊した松藤は、国内の各飛行場での訓練を優秀な成績で終えるや、朝鮮の元山海軍航空隊で猛烈な飛行特訓を受ける。その目的は、もちろん必中必殺の“ゼロセン・ファイター”神風特別攻撃隊員を育成するためだ。そして、元山空の「七生隊」に配属され、鹿児島の鹿屋基地にて指令を待っていた松藤たちに、ついにその時がやって来る。昭和20年4月6日午後1時55分、松藤が所属する七生隊の発進が開始された。目標は沖縄近海に遊弋するアメリカ艦隊。「敵艦ニ必中突入中」。隊長機の符号信号を残し、七生隊からの連絡はやがて消えていった。

招集の際、松藤はアメリカ国籍を理由に断ることもできた。そうすれば特攻隊員として命を落とすことはなかっただろうに、なぜ彼は日本人として戦争に赴くことを選択したのだろうか。これについて彼の心情は遺されていないが、同じ日系二世の同級生の分析が真に迫っていると思われる。「松藤君が立派な日本人として死んでいくことは“両親のため”でもあったと、私は思うんですよ。父親と母親は、アメリカで日系人収容所という“日本人のコミュニティ”の中にいるんです。息子が立派な日本人であることが父、母の誇りなんです。(中略)ご両親が日本人としての誇りを持っていることを誰よりも松藤君が知っていたと思う。(中略)松藤君の場合は、アメリカの日系人社会にいる両親が、“恥をかかない息子”でありたかったと思うんだ」。もし松藤が日本に戻らずアメリカで生活していたら、アメリカ兵として大東亜戦争に参加したのだろうか。どちらにせよ、松藤の体内に流れていたのは、父母の面目をつぶすわけにはいかない、父母に孝養を尽くすという日本人としての血であった。これを武士道と言わず何と言おう。現代に生きる私たちにも同じ血が流れているということを、いまこそ思い起こさなければならない。


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