わたしを離さないで

カズオ・イシグロ

ヘールシャムという、イギリスのどこかの片田舎に存在した施設。ここで幼年期・少年期を過ごした男女は、やがて「提供者」あるいはそれを補助する「介護人」として巣立つことになる。主人公のキャシーもそこで青春時代を送ったうちのひとりで、おてんばだけど情の深いルース、ひねくれ者だけど心優しいトミーとの友情を育みながら成長していく。人里離れた場所にあるヘールシャムでは、保護管と呼ばれる先生たちからの教育を受け、庭師や配達人からは「坊っちゃん、嬢ちゃん」と呼ばれる生活を送るも、キャシーたちは幼年期を終える頃から「私たちはどう生まれ、なぜ生まれたか」を思い身震いするようになり、「いつか……そう遠くないいつか」を意識するようになる。そんな中、キャシーたちは先生から決定的なことを知らされる。「あなた方は誰もアメリカには行きません。映画スターにもなりません。(中略)あなた方の人生はもう決まっています。これから大人になっていきますが、あなた方には老年はありません。いえ、中年もあるかどうか……。いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために作られた存在で、提供が使命です」と。

自分たちの使命が明らかになると、ではどうして自分は存在しているのか、どうしてヘールシャムにいるのかを知りたがる。ヘールシャムを出てコテージでの生活を始めたキャシーたちは、「ポシブル」と呼ばれる存在を探し始める。ポシブルとは、外の世界のどこかにいるはずの親のこと。彼女らは、道でもショッピングセンターでもサービスエリアでも、目を凝らして自分たちの親を探していた。そんな中、ルースのポシブルを見つけたという情報が入る。だが、ルースは狂ったようにまくしたてる。「みんなわかってるんでしょ? わたしたちの『親』はね、くずなのよ。ヤク中にアル中に売春婦に浮浪者。犯罪者だっているかもしれない」。そして、こう続ける。「だったら、現実を見なきゃ。わたしたちの『親』はああいう普通の人じゃない……」。自らの運命を知った彼ら彼女らには、ポシブル探しでさえ、気休めでしかないことをみんな知っていた。

介護人となったキャシーは、ルース、トミーらが提供者としての役割を果たせるべく世話する毎日を送りながら、ヘールシャムでの生活を回想するという形で物語が進んでいく。自らの運命を悟りつつも、ヘールシャムの未来の提供者たちには一縷の希望があった。それがノーフォークという場所。イギリス中の遺失物が集められるというノーフォークなら、どんなに探しても見つからなかった大事な物だって必ず見つかる。キャシーは、ヘールシャムの販売会で買ったカセットテープを紛失してしまうが、ノーフォークに行けばきっと見つかることを心の拠り所として、いつかノーフォークに行くことを夢見て過ごす。そのテープの中での一番のお気に入りの曲が「わたしを離さないで」だった。

近未来を舞台にした小説家と思った。作品の中で1970年から80年代であることを知り、やや意外に思ったが、その頃はすでに臓器提供という社会的問題を含め、人道面での問題が根深かった時代であった。ヘールシャムという施設が存在したもの、臓器提供のあり方に反省を促すことを目的とし、また生徒たちを人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように感受性豊かで理知的な人間に育ちうることを主眼としていたからだ。それが奏功したのか、ヘールシャムの生徒たちは人間性を失わなかった。ノーフォークに託した願いもそうだが、人を愛するようになれば自由になれるという希望を捨てなかった。それゆえ、愛に対して現実的であることも忘れなかったわけだが、いつまでも大切なものを胸の奥に持ち続けられるといった意味では、彼ら彼女らの人生は無駄ではなかったと思えるようになったのだろう。たとえノーフォークという町に何も見つからなくとも、人間とは何かを求め続けながら生きていかなければならないことに気づいたのなら、それは人生における発見と考えて良いと思いたい。


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