この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡

門田隆将

台湾領でありながら台湾本島からは180キロも離れ、一方、大陸からはわずか2キロしか離れていない金門島。大陸にへばりつくように浮かぶこの島は、なぜいまも“台湾領”なのだろうか。国民党・蒋介石と共産党・毛沢東との間で行われた国共内戦において、国府軍(国民党軍)は敗走に敗走を重ねたものの、この金門島の戦いで大勝利を収める。それはまさに奇跡としか言いようのないものであったが、その陰に日本人の力が大きく関わっていたことを知る人は少ない。元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。「義には義をもって返す」。軍人でありながらヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯その生き方を貫いた戦略家である根本は、なぜ悠々自適な生活ではなく、勝機の乏しい戦地に身を投じることを選んだのか。ノンフィクション作家の門田隆将氏が、「義」に生きた根本の人間像に迫る。

駐蒙軍司令官として蒙疆の地にいた根本は、敗戦を告げる玉音放送を司令部が置かれていた張家口で聴いた。終戦の詔勅が発せられたからには、外地にある日本軍は直ちに武装解除しなければならないのだが、駐蒙軍は日ソ中立条約を一方的に破棄して攻め込んできたソ連軍との間で戦闘状態に入っている。このとき、ある覚悟ができていた根本は、蒙疆全域の日本将兵に向け、こう告げる。「私は上司の命令と国際法規によって行動します。疆民、邦人、およびわが部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です」「理由の如何を問わず、陣地に進入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たる根本が一切を追う」。他の関東軍が続々徹底していく中、根本率いる蒙疆軍は、多くの犠牲を払いながらもソ連軍を足止めさせ、在留邦人を守り抜いたのである。

戦後、ひとりの台湾人青年が「共産党の勝利はほぼ間違いありません。このままでは中国全土はもちろん、台湾さえ危ういです」と訴えながら、戦術に長けた日本軍人の協力を求めて奔走していた。そんな中、白羽の矢が立ったのが根本だった。根本には、蒋介石に対して終戦時の恩があった。それは、4万人の邦人と35万将兵を守り、故国日本へ帰してくれたこと。カイロ会談において「天皇制については日本国民の決定に委ねるべきだ」と主張してくれたこと。日本人としてその恩を返す何かをしたい。たとえ役に立てなかったとしても、せめて「死ににいくこと」くらいはできる。「わが屍を野に曝さん」。根本はそう決心し、台湾行きの密航船へと乗り込んだ。

台湾到着後、根本は蒋介石はじめ国府軍将軍と綿密な戦略を練り合わせ、金門島ならびに厦門の地理を見て回り、共産軍の進撃を阻止するための戦術を考案する。激戦となった古寧頭では、攻勢に逸る国府軍を押しとどめるべく、その策を提案。巻き添えで大勢の村民が殺される可能性が高くなったため、国府軍にとって共産党との戦いの本義を考慮してのことだった。総司令部の幕僚たちの中で村民の命を第一に考えた人間はいなかったのだ。かくして、国府軍は金門島の戦いで勝利。以後、中華人民共和国と中華民国というふたつの国が対峙するアジアの国境は画定された。

本書はここまでで終わらない。戦前の体制を軍国主義としてバッシングの嵐が吹き荒れていた日本国内での根本の捉えられ方、金門島の戦いで日本人が活躍したことが抹消されてしまったこと、古寧頭でいまも残る日本人伝説、そしてなぜ根本が台湾に「死ににいくこと」を選んだのか、などが地道な取材を基に詳述されている。戦後、元日本軍人がインドネシアなど各地で活躍したエピソードはたびたび耳にするが、この根本元中将が金門島の戦いで国府軍を指揮したという話に触れたのは、少なくとも私は本書を通じてのみだ。初めは戦記ものとして読んでいたが、項をめくっていくにつれ、根本が「死ににいくこと」を決意したことが無意識のうちに朧気ながらも理解でき、また私自身が日本人であることを再確認できたような気がする。大変有意義な読書であったことは言うまでもない。


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