コンビニ人間

村田沙耶香

主人公は30代後半の女性。正規社員としての職歴はなく、大学在学時にアルバイトで勤めていたコンビニ店員をいまも続けている。男性との性交渉はもちろん、交際すらしたことがなく、異性を意識するような言葉遣いや服装にも無頓着。友人はひとりもおらず学生時代からの知り合いの集まりには顔を出すものの、この歳に定職につかずコンビニ店員でいることを「体が弱いから」と言い訳し続けている。まったくの没個性に見えてしまう主人公だが、コンビニにいるときはこなれた仕事ぶりを発揮し、同僚とも打ち解け新人のサポートもして、歴代の店長からは信頼を置かれて店に欠かせない存在になっている。ある日、一風変わった新人がアルバイトとして入店してくる。35歳でろくな職歴なし、コンビニ店員という職業を見下していて、つねに文句ばかり言っている。「だって、縄文時代からそうじゃないですか。男は狩りに行って、女は家を守りながら木の実や野草を集めて帰りを待つ。こういう作業って、脳の仕組み的に、女が向いている仕事ですよね」「僕はいつかネット企業で儲けるから婚活のためにコンビニ店員になったんです」。こんな感じで与えられた仕事をやろうとしない。人手不足のため仕方なく採用されたのだが、主人公は淡々と彼を受け流しコンビニ店員として躾けようとする。彼は常連客の女性にストーカー行為をしたため、ついに解雇。その後、主人公が突飛な行動に出る。

途中まで読んだところで、この物語は、世間を冷めた視線で見つめながら独りよがりの生活をしているが、とあることがきっかけで一般社会に一歩前進を果たすというよくある話かと思った。あるいは、世間の壁を痛感し立ち止まって憔悴して終わるパターンも思い浮かべた。だが読み終わって考えた。「一般社会」とは何だろうと。企業の社員として世間のうねりにもまれたり、そうでなくても周りと何らかの接点を持って、あらゆる人たちで構成された集団への貢献を持ち回っている集合体のことだろうか。あるいは、単に労働を引き換えに賃金を得るというギブアンドテイクのことを言うのだろうか。定義はさまざまだろうが、格差社会が大きく叫ばれるいま、勝者と敗者がくっきりと区別されるようになり、「社会の底辺」などという言葉も生まれている。いわゆる負け組のことだが、その中には主人公も属しているというのが一般的な認識なのかもしれない。彼はそう認識していたし、主人公のことをあけすけなく罵っている。たしかに、収入や雇用形態だけを見ればそう言えるだろう。では、負け組と何だ。劣等感や引け目は相対的な意識の違いなので絶対的な尺度とはならないため、結局は誰かに決めつけられるものだろう。その誰かとは社会的地位の高い人なのか、それとも自分自身なのか。

この物語には「音」が出てくる。それは、電源を入れれば聞こえてくる音でもなく、電車が通り過ぎる音や人がざわめく音でもない。そこにいる人でなければ聞こえない音、そこを知り尽くしている人でなければ聞こえない音。そうした音を聞き取れるのであれば、そこがその人にとっての居場所であるし、誰かに勝敗を決めつけられるということとは無縁であり続けるのだろう。


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