アヘン王国潜入記

高野秀行

タイ・ラオス・ビルマ(現ミャンマー)にまたがる世界屈指の麻薬地帯ゴールデン・トライアングル。その中でもっとも多いアヘン生産量を誇るというビルマのワ州にて、実際にケシ(アヘンの原料)の種まきから採集まで携わった著者の高野秀行氏が、現地の政治・民族紛争・麻薬取引の現状、そして滞在先の村人との人間味あふれた交流を綴る。

高野氏が7ヶ月間にわたって滞在したのは、先進文明からかけ離れたワ州の中でもさらに文明が及んでいないムイレ村。ここはケシ栽培に適した気候に恵まれているうえ、氏が滞在先の村選びの条件としていた「非文明的」「少数民族の色濃い」「村が美しい」に合致しており、電気、ガス、水道はもちろん、およそ文明と名の付くものは何ひとつない、まさしく原始的な生活を営んでいる村だった。彼らは、ほんの少しながら貧富の別はあれど、みなで飲んで食って騒ぎ、収穫物もみなで平等に分け合って暮らしている。高野氏が“原始共産制”と呼ぶのにまったく違和感がない。

入境する際は「善悪の彼岸」として、来る麻薬生産地での滞在に緊張感を漲らせていた高野氏が、素朴で人なつっこい村人と寝起きを共にしているうち、完全にムイレ村の村民としてコミュニティに溶け込んでいく。そんな中、本来の目的であるケシ栽培に勤しむうち、軽度のアヘン中毒にかかってしまったことは興味深かった。中毒になったきっかけは病による痛みを和らげるため一時的に吸飲したことであるが、麻薬とは、たとえ高野氏のように使命を持ってアヘン取材をしている人でさえも、たった一度の快楽でずぶずぶとはまり込んでしまうものなのだということを思い知らされた(のち氏は中毒を克服)。

また、ワ州での取材を終えタイに戻ってきたとき、高野氏はワ州入りを仲介してくれた人に一握りのアヘンをお土産として渡そうとするが、普段は温和なその人の目つきが急に険しいものになる。「何でそんなものを持ってきたんだ。ここで見つかったら牢屋送りだぞ」と諭される。そこで高野氏は、自分はこれまでまったく別の世界にいたことに気づく。麻薬(アヘン)の栽培・吸飲が普通だった世界から、所持しているだけで警察が飛んでくる世界に戻ってきたということを。これはまさに氏が、私たちが住む世界とはまったく異なる地域にいたことを示唆しているのだ。私たちも短期間の海外旅行から帰国したのち、しばしば似たような錯覚にとらわれるが、氏の場合はまったくその程度が異なることは想像せずとも明らかだ。

「潜入記」と銘打つ割には、つねに生死の境目に立たされるようなドキドキハラハラの冒険譚というわけではなく、どちらかというと、いや一方的に冷静なルポルタージュの色彩が濃い。それゆえ、本書に単純な読み物である以上に、地域経済や歴史的・地域的な民族構成、また文化人類学的文献としていいかもしれない。それにしても、高野氏がワ州を訪れたのは20世紀の最終盤。現在に至っては、政治的に民主化が成し遂げられ「ミャンマーの春」などと称して、外資の受け入れが進んでいる。こうした状況において、ワ州、特にムイレ村の人々はいまどのような暮らしをしているのだろうか。同地に対する思い入れがない私ですら、本書に触れることで強く沸き上がってきてしまうから不思議だ。


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