幻庵 上

百田尚樹

江戸時代後期、文化・文政時代から幕末にかけての囲碁界を舞台に、碁界最高権威「名人碁所」の座をめぐる天才棋士たちを描いた物語。本因坊家、安井家、井上家、林家といった4つの家元が、天上人とも称される「名人」を排出し、さらに将軍指南役でありほかの3つの家に君臨することのできる「碁所」を目指してしのぎを削っていた。やや停滞期にあった碁界を本因坊察元名人が建て直すと、服部因淑、安井仙知、本因坊元杖、安井知得ら、名人レベルの天才が綺羅星のごとく現れ、江戸の碁界を大いに盛り立てていく。しかし、碁界にはしがらみのようなものがあり、実力があるからと言って名人碁所になれるわけではない。たとえば、安井仙知は25歳にして段位は六段ながらも半名人(八段)の力があると言われ名人碁所の資格は十分にあった。だが、仙知は寺社奉行に名人碁所願いを出さなかった。まず家元の跡目でなければならないことのほかに、過去の名人は30代以上で就いており20代では若すぎるとされて拒否される可能性が高かった。江戸幕府はとにかく前例を重んじた。では年月が経てば名人碁所になれるかというとそういうこともない。彗星のごとく次々に現れる天才少年に追い越されてしまうからだ。それは、いつ名人になってもおかしくないと言われ、かつ竹馬の友だった本因坊元杖と安井知得も同じだった。

そんな中、江戸の碁界を揺るがすだけでなく、囲碁史上最も熾烈な戦いを演じたと言われることになる2人の碁打ちが現れる。服部立徹(のちの幻庵)と本因坊丈和だ。このふたりは生涯にわたって対局することになるが、残された69局の碁譜は現代のトップ棋士たちをも慄かせるものだという。碁打ちにはいろいろなタイプがいる。本因坊元杖のように厚みを築いて豪快な攻めで追い込んでいくタイプもあれば、安井知得のように足早に地を稼ぎ相手の攻めをしのぎ切るというタイプもある。多くの碁打ちがどちらかに分かれるが、幻庵と丈和はヨミを主体にして徹底的に戦い抜く碁だった。ボクシングでたとえると、判定勝ちを望むのではなくKO目的で渾身のパンチを繰りだすスタイル。それゆえ、江戸の庶民はふたりの碁に熱狂した。だが、このふたり、非常に人間らしい癖も持っていた。幻庵は武家の出であり天稟の才の持ち主だが、勝負に勝ったと気づくと途端に気が緩み、またカッとやりやすい。これに対し、丈和は魚の行商人の子で、悪粘りに粘る賭け碁の打ち方をする。さらには兄弟子に暴力を働き破門になったこともある。そんなふたりが、互いの家元の跡目となって碁盤を挟んで対峙する。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です