「調査報道」とはいったい何だろうか。一般的な定義によると、「当局者による発表に依拠することなく、独自の問題意識をもって、隠れている・隠されている事象を掘り起こし、報道すること。特に権力の不正や不作為などを対象とし、その時に報道・取材しなければ、歴史の波間に埋もれてしまう事実を掘り起こす報道を指す」ことだという。ネットユーザーから“マスゴミ”と揶揄され、国からは記者クラブを使って情報統制されているマスコミの中で、「調査報道」こそが最後の砦と信じ、文字通り地球の裏側まで真実を追い求め続けているジャーナリストがいる。新聞、週刊誌、テレビと30年以上にわたって、強大な権力によって封印されようとしている事実と対峙している清水潔氏が、これまでに関わってきた数々の難事件を引き合いに出しながら、真偽を見極める力と報道の原点を問う。
桶川ストーカー事件を知らない人は少ないだろう。1999年10月、JR桶川駅前で女子大生の猪野詩織さんが白昼、刺殺された事件だ。詩織さんは当時小松という男と交際していたが、彼の異常な人間性を知るにつけ別れ話を切り出すも、難癖をつけられ拒絶される。激しい暴力性と嫉妬心を併せ持つ小松は、詩織さんの自宅に押し寄せたり、公衆の場にて詩織さんや家族を中傷するポスターを貼ったりと、嫌がらせはエスカレート。詩織さんが友人に遺言めいた言付けを残す中、起きた事件だった。その頃、マスコミは「詩織さんは風俗嬢」「ブランド依存症」などと殺されても自業自得だと言わんばかりの報道を繰り返していた。そうした情報の元ネタが警察だったわけだが、その警察は詩織さんからの告訴状を被害届として改竄していた。告訴状を受理したとなると、捜査や報告が必須義務となる。未解決事件の累積は署の成績に影響することを憂慮してのことだった。
警察発表を鵜呑みにし垂れ流しにするマスコミの中で、清水氏は違った。事件発生現場にて知り合った詩織さんの友人から詳しい話を聞き出すと、詩織さんの家族からも証言を取り、すぐに裏取りに走った。詩織さんが小松と知り合ってからの足取り、小松の素性(車のセールスマンと吹聴していたが、実は池袋の性風俗店のオーナーだった)、ストーカーグループの根城と関係者への取材などを通して、清水氏は警察が嘘をついているのではないかという確信を強めていく。そんな中、詩織さんからの刑事告訴を受理したものの、ほとんど捜査せずに放置し、あまつさえ告訴取り下げ要求すらしていた事実をつかんだ。こうした清水氏の執念が実り、ついに国会までもを動かし、埼玉県警は署内での改竄行為があったことを認め謝罪。その後、マスコミ各社は手のひらを返したように県警叩きに躍起となる。その急変ぶりに、清水氏は開いた口が塞がらなかったという。
本書は他にも、足利冤罪事件や3億円事件、北朝鮮拉致事件などを取り上げながら、調査報道の重要さ、そして難しさについても語られる。調査報道は報じられる側がそれを望んでおらず、また相手は強大な権力を持っているため、中途半端な報道では否定され、場合によっては訴えられたりと返り討ちに遭うことが多い。徹底的に取材し、どこかのタイミングで報じた内容を相手に認めさせなければならないわけだが、実行するにはとてつもない困難がつきまとう。まるで捜査当局のような調査技術と責任がたかだかひとつの会社、ひとりの記者に求められる。発表報道の常套句「◯◯によれば」が使えないのだ。発表されてこなかった事実をつかんだとき、その信憑性を担保できるのは自分しかいない。本書を通して、本当の報道、本物の記者とは何かを感じ取ってほしい。