2011年3月の東日本大震災を受け、「戦後」が終わり「災後」が始まる、と語る向きがある。「災後」とは聞き慣れない言葉だが、要するに、大東亜戦争後の戦後、ここで言う第一の戦後が東日本大震災により集結し、そこから新たな戦後、つまり第二の戦後と呼びうる時代のことを指す。では、今後我々が直面することとなる災後なるものは、一体いかなる時代となるのだろうか。それは日本史上類を見ないユートピアとなるのだろうか、それとも悪逆の徒が跋扈する世紀末のような時代となるのだろうか。著者の佐藤健志氏によると、現在我々が生きている戦後が繰り返されるだけの「堂々巡り」が現出するという。佐藤氏は「災後」について、「みずからの道義的優位を確立した形で『戦後』を最初から繰り返すこと――言い換えれば、現実の戦後よりも都合の良い『理想の戦後』を作り上げ、そちらを肯定すること」を希求する時代と喝破。それを支えているのが、大東亜戦争が道義的にすっきりしない形で終わったという認識だと説く。
すっきりしないとは、日本が大東亜戦争を集結するにあたって「本土決戦」を避けたことに起因している。「一億玉砕」「神国日本は不滅」など、戦時中こそ国民最後の一人に至るまで徹底的にアメリカを叩き潰すとの気炎を上げていたが、沖縄戦、広島と長崎への原発投下を受け、本土決戦をすることなくポツダム宣言を受諾。その後は、アメリカがもたらした日本国憲法と民主主義を金科玉条のように崇めつつ今日までやってきた。これを戦前からの「変節」とし、戦後の日本人はアメリカ中心の連合国に染まること(特に戦争放棄の憲法9条)で道義的優位に立ったと思い込む「虚妄」の世界に生きているという。こうした風潮にこらえきれなった人たちは戦後レジームの脱却だとか日本の自主独立を叫び、しきりに「戦後」を終わらせることを熱望する。だからこそ、「戦後」を終わらせるために必要な共通体験としての破壊を求め、東日本大震災を虚構の怪獣であるゴジラに見立てたのだ。ゴジラが破壊しまくった日本(正確には日本全土とはいえないが)が、第二の敗戦を経た第二の戦後と位置づけられる「災後」となりうるのか。この「災後」の発想に対し、「日本に虚妄性が蔓延る限り自滅願望が生まれ最終的には失敗する」と結論付ける根拠は何なのか。佐藤氏の筆が唸る。
読後の感想として、やはり再読が必要だと強く感じた。文章は力強いのだが非常に硬質で、それゆえ理解が及ばず消化不良に終わった箇所が数多い(もちろん私の読解力の問題だが)。そんな中でも、戦後の日本が孕む、佐藤氏の言うところの「虚妄性」を、映画やアニメ、小説、舞台劇などのポップカルチャーから寓意を拾た解説には大いに膝を打った。「バトル・ロワイアル」「アキラ」「時計じかけのオレンジ」「スカイ・クロラ」「崖の上のポニョ」など、ごく最近のヒット作はもちろん、終戦直後に作られた劇、左翼闘争華やかなりし頃の映画など、戦後体制に警鐘を鳴らした、あるいは皮肉った含意あふれる内容が紹介されている。読みの浅い私などでは到底気づかないものであり、ゴジラも伊達や酔狂で東京を破壊しているわけではなかったことを知り恥ずかしい思いすらする。折を見てじっくり読み返そうと思う。
ピンバック: キング・コング -怪獣映画に込められた意図- | いまさら映画評論@旧作派