クールジャパンの嘘―アニメで中韓の「反日」は変わらない

古谷経衡

アニメや漫画などに代表される日本の大衆文化を「クールジャパン」と命名し、日本の外交力やブランド力を高めるソフト・パワーとして国際的浸潤を政府が推し進めていこうという試みが行われている。民間の技術と創造力が結集されたコンテンツを国が支援し、国際的な認知度の向上、販路の拡大に努めていくのは当然のことであるのだが、著者の古谷経衡氏は、政府内での認識や戦略が空理空論に陥っているのではないかと首を傾げる。その最たるものが、日本のソフト・パワーが中国や韓国の反日を緩和させるのではないかという、「文化が反日を駆逐する」という願望だ。2012年末に政権を奪還した自民党がクールジャパンに力を入れているにもかかわらず、中国韓国の反日行為は緩まるどころか、ますますその度合を強めている。こうした現実を踏まえ、古谷氏は、クールジャパンという言葉にはあまりにも多くの事実誤認、曲解、そして願望による勝手な解釈がまかり通っていると指摘する。

そもそも、ソフト・パワーという用語の捉え方からして間違っているという。日本はこれまで、ソフト・パワー(金融・文化)とは対局にあるハード・パワー(軍事力)とは別個のものであり分離可能なものと捉え、その認識のもと戦略を立ててきた。だが、ソフト・パワーを定義したジョセフ・ナイは、その著書で「相手を取り込むというソフト・パワーは、相手を強制的に従わせるハード・パワーに劣らず重要だという点である。もし、ある国がその力を他者の目に正当化できるなら、その意図に対する抵抗はより少ないだろう」と語り、ソフト・パワーとは軍事力を大前提として成り立つものだと示唆している。つまり、ハード・パワーなきソフト・パワーに外交力は伴わない。したがって、いくら中国や韓国の若者がネットに違法アップロードされた日本のコンテンツを愛好しようと、正式な軍事力に担保されていない日本のソフト・パワーにほだされ反日を放棄することなど考えられないのである。

では、なぜ日本はナイの定義したソフト・パワーを曲解し、独自のソフト・パワー論を展開させるに至ったのであろうか。古谷氏は、「ソフト・パワー」という用語の響きが、「非軍事的なるもの」の象徴のように耳触りよく聞こえ、戦後日本人に受け入れられる要素が多分に含まれているということが第一の原因だと分析。さらに、軍事力のない日本でも非軍事力の分野で外交力を強化、発信することができるという願望と一体化したのだろうと付け加える。だからこそ、日本独自のソフト・パワーをもってすれば、ハード・パワーに頼らずとも「中韓の反日を駆逐できる」という発想が生まれるわけだ。

だが考えてみてほしい。日本は戦後、大量に流入したアメリカの大衆文化により、敗戦直後の激しい憎悪を雪解けのようになくしていった。これがもし、本土決戦を決行し女子供を含めた日本人が米兵と壮絶な肉弾戦を繰り広げた上で終戦を迎えたとしたら、アメリカ大衆文化の普及はいったいどうなっていただろうか。いずれは受け入れるであろうが、そのタイミングは、本土決戦を行わなかった場合と比べてはるかに遅くなっていたはずだ。つまり、日本が敵国に対する意識を変革せしめられたのは、「相手国の軍事力と文化」というハード・ソフト両方のパワーではなく、「文化(ソフト)」の面だけ。こうした体験により、日本らしいコンテンツを海外に発信すれば国際的地位が向上するものと早合点してしまっているのだ。この傾向は、現行のクールジャパン推進会議における迷走からも見て取れる。

本書はほかにも、秋葉原はアニメの街なのか、海外で受けている日本のアニメはどんなアニメか、ガラパゴス化するアニメとはどんなアニメかなど、アニメオタクを自認する古谷氏の独壇場とも言える興味深い記述が続く。その中でも、クールジャパンを成功させるキーワードたる「日本的記号」とは何かについて語る箇所には思わず膝を打った。「われわれが海外旅行をするときの感動と醍醐味は、観光パンフレットに絶対に載っていないような民家の庭先の植木鉢の形や、使い捨て食器の材質だったりするのに、相変わらず彼らの感性は、目に見える記号を内包した、例えば京都や奈良で典型的にみられる『観光地の売店』の売上を上げるにはどうしたらよいか、という商店街の寄り合いのレベルに終始しているのである」。日本的なものを認識し発信するべき推進会議メンバーは、目に見える記号的なものにばかり目が行き、そもそも日本的な情緒・感性とは何かについてを置き去りにしてしまっている。それを是としてまでクールジャパンを推し進めるのであれば、日本人の価値観を鋳型に押し込むような政策はやらないほうがましではないだろうか。


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