英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる

施 光恒

2014年8月、内閣官房管轄下のクールジャパンムーブメント推進会議が「公用語を英語とする英語特区をつくる」という提言を発表した。それと前後して、小学校における英語教育の早期化、文科省が省内の幹部会議の一部を英語で行うことを決定、楽天やユニクロが社内の公用語を英語化するなど、公の場での発言を英語一本化し日本語の使用を控えるという動きが起こっている。最近はグローバル化の時代なので、日本人も英語くらいできなければいけないという意見もあるだろう。だが、いま日本で起きているこうした動きは、個々人の英語学習意欲と同列で語れるものではなく、その本質は学校や企業の環境を英語化し、ひいては日本全体を英語化していこうという試みだと言っていい。日本社会の英語化を進め、英語を第2公用語とすることが、日本経済復活のカギなのだろうか。国民みんなが英語を話すことが、日本社会が活力を取り戻すことにつながるのか。政治学者の施光恒氏が、その行き着く先に「誰も望まない未来」が待っているとして、政府の英語化政策に警鐘を鳴らす。

「これからは英語の時代だ。日本語だけできてもだめだ」。こう考えたとき、日本語の地位はどうなるのだろうか。土着の言語である日本語は、進歩によって乗り越えられた時代遅れの非合理的な存在ということになってしまう。加えて、グローバル化の進展にともなって英語化が急進すると、日本語が「国語」の地位から滑り落ち、単なる「現地語」になってしまうという懸念もある。ここでいう「国語」とは複雑化した近代の国家や社会を運営することができる言葉を指し、一方の「現地語」とは知的で複雑な事象を論じられない日常的な事柄のみを取り扱う言語のことをいう。つまり、「現地語」の話者は政治に参画することができないのだ。これを合理的な進歩であるといえるのだろうか。

中世ヨーロッパの支配階級の正当性の源泉は、ラテン語とそれがもたらす宗教的、知的権威だった。彼らはラテン語を駆使するグローバル・エリートであり、神の言葉に触れられる者だったため、当然のこととして支配的立場を独占していた。一方、土着語しかできない庶民は、粗野で卑近なことしか知らず、政治的にも経済的にも文化的にも劣っていた。そうした庶民のコンプレックスを一掃したのが、ルターやティンダルらによる聖書の翻訳だった。ラテン語でしか書かれていなかった聖書が、自分たちが日常使っている言葉で学び論じることができるようになった。言い換えれば、「普遍」とされていた知が、「翻訳」と「土着化」のプロセスを通じて、既存の慣習や生活様式にうまく接合し、土着語の社会空間が活性化されるようになったのだ。だとすると、非英語圏の日本で国語の現地語化が進めば、普遍語(英語)を話す特権階級と、各地の現地語を話す一般の人々との間の知的格差が復活し拡大していくことは明白だといえるだろう。明治維新を経て近代化へと突き進んでいった当時の日本が、外来の「知」を日本語に翻訳し普及させていったことで、非欧米社会で初めて近代的国家を建設できた歴史を忘れてはならない。

とはいえ、外国企業との契約のやり取りであったり、旅行先で現地人との意思疎通、プログラミングなどエンジニアリングな面などでは、世界共通語としての英語は絶対必要だ。施氏も英語を完全否定しているわけではなく、政府の英語化政策により、英語的な価値観や思考方法こそ先進的でカッコいいと思い込み、日本語や日本的価値観、ひいてはそれを身につけている大多数の日本人を軽く見るような未来が現出してしまうことを危惧している。よく日本人は英語が下手くそと言われるが、なぜ英語を使わなくてもよい社会をつくることができたのかの理由を考えてみると、理想的な多元的世界秩序構築のための解が生まれると指摘する。また、日本蓄積してきた「翻訳」と「土着化」のノウハウこそ、一部のエリートのみ潤うグローバル化に待ったをかける一手であるという考察も興味深い。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です