日本人はなぜ大災害を受け止めることができるのか

大石久和

サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」の中で、日本を他のどの文明にも属さない独立した文明を持った国家だと指摘した。それはそれで誇らしいと思うが、欧米の文明と同一性を見いだせないのはまだしも、歴史的に大いに影響を受けたはずの中華文明とも異なるとした根拠はいったいどこにあるのか。これまで、武士道、風土、社会構造など様々な側面から検証が試みられてきたが、著者の大石久和氏は「われわれ日本人は経験したが彼らは経験しなかったもの、われわれ日本人は経験しなかったが彼らは経験したもの」にカギがあるとして考察を進める。

その経験の結果、造ったもの、造るに及ばなかったものが、都市城壁および国土を縦横断する長城である。彼ら(欧米人や中国人)はつねに外敵との戦争や侵略に晒されており安全に暮らすための環境が必要だったことから城壁で街を囲った。一方、大量虐殺を伴う戦乱を経験しなかった日本人であるが、地震・津波・火山噴火・洪水などの自然災害が頻発する国土であるため、そもそも城壁などものの役に立たないため造る必要などなかった。この経験(城壁の有無)が両者の思考や感情の違いを大いに隔てることとなったとして、大石氏は彼らを「紛争死史観」、日本人を「災害死史観」と区別。こうした論拠を基に、「死とは受け入れざるを得ないもの」という死生観を持つに至った日本人論を展開する。

よく日本人を評して「新しもの好き」と言われることがある。その理由として、日本人は発明家が生まれやすい民族だからということではまったくない。猛烈な力ですべてを破壊し、街を一変させてしまう自然災害がやってきたら全力で耐え抜き、新たな生活を始めるためにまた一からやり直さないといけない。こうした事情から、自然が勝手に変えてしまうから変わることを拒否していたのでは生きていけない、変わること(死から新しいものをつくること)を受け入れざるを得ないという心情を持つようになった。死をもたらすものである自然は「天為」であるため、こう対処せざるを得ず、日本人は度重なる自然災害から立ち直ってきたのだ。

こうした日本人の成り立ちから世界でも稀有な特性が育まれた一方、決定的な欠陥を生じさせることとなったとも指摘されている。そのひとつが「装置インフラの軽視」だ。装置インフラとはつまり、日本人が必要ない(あっても意味がない)として採用しなかった城壁のこと。外敵から街を守るという存在目的の前提には、「来るべき危機に備え、入念に作戦を練り補給の体制を整えておく」という発想がある。日本人にその発想がない。あまつさえ、その裏返しとして、「危機(災害)とは予期せずやってくるもの、だから危機になってから考える」と思考するようになってしまった。これは致命的だ。そのため、ノモンハンでソ連軍の装備についての認識を怠り大損害を喫し、ガダルカナルでは無計画な逐次投入に徹し大敗北した。また、たしかに東日本大震災直後は被災者の粛々とした姿に海外から賞賛の声があがったが、いまだ復興ならず、国土強靭化も遅々として進んでいない現実を見ると、近いうちに同じ轍を踏むのではと戦慄せずにいられない。なにせ「非常時のことは考えたくない」というのが日本人なのだ。

本書はほかにも、伝統的に小集落で生活してきた日本人が現在の“日本人らしさ”を形作り、それがどのように現代日本を動かしているのかを指摘。メリット・デメリットをあげた上で、どのように世界で振る舞うべきかの提言を行う。その中で特に銘記しておかねばならないことが、日本人の歴史観が「流れていくもの」であるのに対し、彼ら(繰り返すが欧米人や中国人)のそれは「積み重なるもの」だということ。積み重なるということは、日本的な過去(災害でメチャメチャにされたこと)は水に流すといったものではなく、戦争で城壁を破壊され家族や仲間を殺された恨みを持ち続けることである。西欧や中国では、逆転勝利した側が恨みを晴らすため相手方を殲滅するどころか墓まで暴くといった記録がいくらでも残っている。翻って、いま日本が陥っている情報戦の一環である「歴史認識」。これに勝利するには「捏造だ!」「戦勝国史観だ!」と正論を訴えるのもそうだが、まず日本人自らが「流れていく歴史認識」を洗い、相手方の思考回路を知ることから始めないと解は得られないのだろうと思った。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です