「国民が国家を意識しなくなっている」。自国の歴史をはじめ国旗や国歌を尊重することは当然であるということが世界の常識であるはずなのに、日本においてはかつてアジア各国を侵略したという例の自虐史観のもと、自国に誇りを持たせないようにする教育が行われてきた。そのため、日本人としてのアイデンティティが希薄になってしまった日本国民は、国家観を喪失すると同時に、国家が成立するための前提となる共同体の意識までも失いつつある。経済評論家の三橋貴明氏が、人間は「国家という共同体」に属さなければ生き延びることができないという主張を軸に、「国民としてどうするのか」を考えるナショナリズムの本義について提起し、日本国民に国家あるいは日本についての再認識を促す。
人間はひとりでは生きていけない。生活に最低限必要な衣食住はもちろん、電化製品や交通手段、道路、橋、それに電気を家庭に送るための発電所、送電網などのインフラストラクチャーが必要となる。奥深い山中にて着の身着のままで暮らし、いつ野垂れ死んでも構わないというのなら話は別だが、健康で文化的な生活を送りたいのであれば、インフラを正しく管理する専門家の存在なしには成り立たないことは想像に難くないだろう。私たちは「他の誰か」に頼りながら生活をしているわけであり、その一方で、自らも「他の誰か」のために働き、モノやサービスを供給することで貢献しているのだ。こうした互いに労働を提供し合う人間同士の関係を「共同体」というのであり、その最小の単位が家族であり、最大のものが国家となる。国家はその最大の利益である国益を追求し、その国家を運営する共同体は「困ったときはお互い様」の精神で助け合いながら共同生活をしていく。軍事や経済など一部の利益を共有するだけの同盟国とは、そもそも共同体になり得ない。
国家には、自然国家と人工国家というふたつのタイプがある。自然国家は歴史的に人々が共同体としての意識を醸成し言語、文化、伝統を共有することで自然にできあがった国家のこと。その代表は言うまでもなく日本だ。これに対し、人工国家とは文字通り人の手により人工的に作り上げられた国家のことであり、真っ先にアメリカが思い浮かぶだろう。これらふたつのタイプの国家は、歴史の長短はあれど、共通して保有しているものがある。それが建国神話だ。日本だったら天孫降臨、アメリカだったらメイフワラー号の入植といった感じに、いかなる国家も何らかの建国神話を持ち、共同体としての結束を強めようとしている。移民国家や一党独裁国家でそれが強調される傾向にあるとはよく聞く話だろう。そのため、日本の教科書で自国の建国神話を教えなくなったことは大いに危惧すべきことだ。歴史学者のトインビーが「12~13歳くらいまでに民族の歴史を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と語っているように、日本では幼いころに植えつけるべき国家観すら学べない状態にあるからだ。
本書はほかにも、三橋氏の専門分野である通貨や税金、公共事業、ライフラインなど経済的側面から国家を語ったり、警察や消防、自衛隊が担う防犯・国防といった面にも触れ、私たちが忘れかけている、というか気づかないでいる国家が持つ本来の姿を訴えかける。三橋氏が他の著作やブログで語りかけていることを集大成的にまとめた内容となっているが、中でも白眉だったのが「社会保障」の項目であった。たしかに、国民一致団結して耐え忍ばねばならぬ難局もあるし、いかに国家のためといっても自分が損をしてしまうこともあるだろう。こういった時、「自分さえ良ければいい」と言って国民の義務を放棄してしまったら、その時点で社会保障、つまり国家は崩壊してしまう。国民皆保険制度は形骸化し、年金で高齢者を養うこともできなくなる。国家を支える共同体意識も霧散し、勝手なことを言うマスコミが跳梁してデフレ脱却は果たせず、もしかしたらまた民主党のような政党が政権を取ってしまうかもしれない。しかし、三橋氏も言うように、日本はまだ健全なナショナリズムが保たれている。テレビから氾濫する耳あたりの良いフレーズに踊らされる前に、私たちは少しずつでも日本という国家を意識する習慣を身につけていかねばならない。