海上護衛戦

大井 篤

日本はなぜ大東亜戦争に敗北したのかについては、『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』をはじめ、これまで数多くの書籍で検証が加えられてきた。その中で、一貫して指摘されていることは「兵站を疎かにしたこと」「戦力の逐次投入に徹したこと」「資源を輸送するルートを確保できなかったこと」などだ。本書は、大東亜戦争にて海上護衛総司令部参謀を務めた大井篤氏が、海上輸送におけるタンカーや商船の護衛にスポットを当て、大東亜戦争開戦から敗戦までを俯瞰しつつ、いかに日本が海上護衛を軽視し、そのために国も軍も窮乏し敗れていったかを詳述。通史として戦局を振り返るスタイルというより、マーシャル諸島やマリアナ、レイテなどで次々に海軍艦艇が撃沈されていく中、潜水艦という海中からの脅威によって、資源を満載したタンカーがほぼ丸腰状態のまま雷撃され沈められていくことで南方ルートが遮断され日本がジリ貧になっていく様を悲劇的に描いている。

日本がいかに戦争経過について楽観的だったかを示す格好のエピソードがある。それが昭和17年3月17日に行われた大本営政府連絡会議でのひと幕だ。会議の冒頭で以下のようなスピーチがあった。「初期作戦において陸海軍共に予期以上の大戦果を収めたる結果、差当り、英米をして守勢に堕せしめ、我国土の防衛、主要交通船の確保等に関し有利になりたる外、(中略)従来は守勢的戦略態勢を採るの已むなきを予期せしめたるに反し、今や攻勢的戦略態勢に転じ得るの機運となれり」である。一読すると、真珠湾でアメリカの戦艦を沈めたり、香港やシンガポール、マニラから米英の根拠地を奪ったことだけで主要交通路(南方ルート)の確保ができるようになったと嬉々として思い込んでいる姿が想像できる。たしかに真珠湾攻撃やマレー進撃戦は日本にとって戦果であった。だがその後、潜水艦という覆面の影武者が、日本が取得した水上制海権の底を潜ってタンカーや商船を攻撃してくるなどと想定さえしていないことが明確に読み取れる。

事実、米軍潜水艦による被害が深刻化してくると、海軍軍令部はようやく重い腰を上げ、海上護衛隊を組織した。だが、「護衛」と言っても名ばかりで、艦艇は各鎮守府、警備府などからかき集めてきた老朽艦ばかり。対する米海軍は昭和16年の開戦前の段階で、280隻の護衛艦(護衛空母1隻、駆逐艦176隻含む)を保持していたというから、海上護衛の認識の差異は天と地ほどもあったと言っていいだろう。しかも、日本海軍は昭和18年12月まで、護衛専門ないし対潜作戦専門の航空隊はひとつも編成されていなかったというから目も当てられない。こうした日本の状況を尻目に、米海軍は潜水艦による日本商船攻撃を激化させていく。これは、第二次大戦でドイツの潜水艦がイギリス商船を攻撃することで戦局における大きな成果を見せていることに影響を受けたことによる。

日本人は概して線香花火型で華々しく攻勢をとって勝敗を一気に決することを良しとし、海上護衛作戦のような地味で受け身一方の作戦には適しないという国民性。兵站補給に拘束される陸軍と違って、軍艦に弾薬糧食をドッサリ積み込んで進退自在に勝手に作戦することに慣れているという海軍の特性。いろいろと理由はあるだろうが、それが通用しない相手と戦っている以上、先見の明がない戦争指導者に率いられた国家は必然的に負けるのだ。海軍戦略の第一人者であるアメリカのアルフレッド・マハン少将は「戦争は軍事作戦遂行と並行的に通商を続け得る側が勝つ」という意味のことを述べたという。本書を通読すると、こうした先達を持った国と矛を交えた時点で日本は敗北したということが痛いほど理解できる。これからの国家戦略を練る上で、本書がさらに注目されることを望む。


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