大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか

加瀬英明

1919年、パリにおいて第一次大戦のベルサイユ講和会議が開催された。国際連盟憲章が起草された際、日本全権団が人種平等の原則を盛り込むように提案したにもかかわらず、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの植民地諸国によって葬られた。この日本の提案には、セルビアをはじめとしたヨーロッパの小国が賛成票を投じて、日本案が多数決により成立することになったところ、議長であったアメリカのウィルソン大統領が「このような重要な議案については、全会一致によらなければならない」と強弁して否決。幕末期から列強と結ばされていた不平等条約を日露戦争勝利により撤廃した日本は、列強となった後も、人種差別撤廃を訴え続けてきたが欧米諸国によってことごとく拒まれてきた。アジアからアフリカ、アメリカに至るまで、有色人種は、日本が第二次大戦に参入するまで数百年にわたって、白人優位の世界秩序のもとで人としての尊厳を奪われていたのだ。

日本軍は開戦とともに、香港、マレー半島、シンガポール、ビルマ、インドネシア、フィリピンを次々に攻略。肌の色が違うために辱められ、惨めな境遇に置かれてきた現地の人々が、日本の働きによって重い鎖から解放された。抑圧された有色の人々が覚醒する中で、アメリカ、大英帝国、オーストラリア当局などがうろたえ、有色の活動家に対する取り締まりを強化することに狂奔。そのかたわら、有色の人々を懐柔するために、慌てて人種差別政策を緩和することを強いられた。白人たちにとって、日本軍の進攻によって数世紀にわたった白人の優位が打破されたことは、まさに驚天動地の出来事だった。その後、1943年11月5日、日本は大東亜会議を招集。有色人種のリーダーが集まった、人類史上初めての歴史的なサミットだった。その席でインドのチャンドラ・ボースは、「本会議は戦勝国間による戦利品を分配する会議ではない。解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、および相互援助の原則に基づいて、世界のこの領域に新秩序を建設するものである」と説いた。

著者の加瀬英明氏の父・俊一氏は、日本敗戦後、戦艦ミズーリ艦上での降伏式典に参列した。加瀬氏はこの時父はどう思ったのか問うたことがある。すると「日本は戦いには敗れたけれども、数百年にわたって奴隷にように虐げられていたアジアの民を解放した。そういう歴史的な大きな、新しい時代を開いたという意味で、日本は勝ったという誇りを胸に秘めて甲板を踏んだ」という答えが返ってきたという。これは日本人が言うから白々しく聞こえるかもしれない。だが、1977年のマニラでの国際会議でインドネシアのアリ・ムルトポ准将が語った、「日本はアジアの光である。太平洋戦争はアジアの独立のための戦いであった。アジア人が戦うべきだったのに、日本人が立ち上がって犠牲になった」という言説に裏付けられるのではないだろうか。日本は、アメリカ軍による無差別空爆で大勢の民間人が虐殺され、さらには広島、長崎に原爆を落とされ、国土をめちゃくちゃにされてしまった。しかし、日本が大きな犠牲を払ってアジアが解放されると、その高波がアフリカ大陸も洗って、西洋の列強によって虐げられていたアフリカの民が次々と独立していったのだ。


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