敵兵を救助せよ! 駆逐艦「雷」工藤艦長と海の武士道

惠隆之介

1942年2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合国艦隊との間で行われた「スラバヤ沖海戦」。2月15日のシンガポール陥落を受け、英重巡「エクゼター」と随伴駆逐艦「エンカウンター」を中心とした英国艦隊は、ABDA(米英蘭豪)連合部隊を編成し、ジャワ島スラバヤ港に転進。一方の日本艦隊は、24日バンカー泊地からジャワ海を目指して一斉に出港した。この時、本書の主人公・工藤俊作海軍中佐が指揮を執る駆逐艦「雷」は、蘭印攻略部隊指揮官座乗の重巡「足柄」の直営を担当することとなった。「雷」の護衛能力、対潜警戒能力が高く評価されての編成であったが、艦隊後方で指揮を執る主隊護衛ということで主戦場から離れるため乗員の間では不満が生じていた。艦内では「主隊の護衛より、水雷戦隊として敵艦隊と戦闘し、鍛えた腕前で敵艦を撃沈したい」という旺盛な士気で満ち溢れていたからだ。だが、鷹揚で面倒見のいい親父肌の工藤艦長の人柄が、そんな血気盛んな乗員たちをうまくひとつにまとめ海戦に臨む。そして、27日正午、「敵艦隊発見」の報が入る。戦闘は日本艦隊に有利に進む中、「エクゼター」は駆逐艦「電」が(諸説あり)、「エンカウンター」は重巡「妙高」と「足柄」が撃沈し、他の敵艦も一掃したところで海戦は終了した。

そんな中、当時単艦行動を取っていた「雷」の左舷二番見張りが、3月2日、海上にて救助を求めている「エクゼター」と「エンカウンター」の乗組員を発見。艦を近づけていく。この時、現場で漂流していた英国海軍士官は「銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えた」という証言を残している。だが、「雷」のマストに翻ったのは「救難活動中」の国際信号旗。そして、工藤艦長は艦隊司令部宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」との無電を発した。漂流者の手前で艦を停止させると、舷側から縄梯子を下ろし次々と彼らを甲板へと引き上げていく。負傷者用の天幕を張るため、一番砲だけ残しスペースを確保するという、日本海軍史上極めて異例な号令もかけた。ひと通り救助が終わると、工藤艦長は英国海軍士官を前甲板に集め、挙手の敬礼をし英語でのスピーチを行う。「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」と。その後も「雷」は終日海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遥か遠方にひとりの生存者を発見しても、必ず艦を近づけ乗組員総出で救助した。「雷」はこの日の午前だけで404人を救助し、午後は18人を救助した(水没したり甲板上で死亡した者は除く)。

終戦から60年あまり、ひとりの英国人が日本の土を初めて踏んだ。元海軍中尉サムエル・フォール卿である。スラバヤ沖海戦で乗艦を撃沈され海上を漂流している時に、「雷」に救助されたうちのひとりだ。戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかもしれない危険な海域で、自艦の乗組員の2倍の敵将兵を救助した、その艦を指揮していた工藤俊作への恩情を断ち切ることはできなかった。工藤艦長はすでに他界していたが、せめて墓参して遺族に感謝を表明したいという思いを胸に、フォール卿は80を超える齢にもかかわらず来日を果たしたのだった。しかし、その願いはかなわなかった。本書の著者であり海上自衛隊OBでもある惠隆之介氏は、工藤艦長の墓と遺族を探しだすことを約束し、またこの偉大な先人の功績を後世に伝え残すことが後輩たる自らの責務であると自覚し本書の執筆に取り掛かった。「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称えることだと思います」。フォール卿が惠氏に語ったこのひと言が、本書のすべてを物語っている。全頁を通じて、惠氏が工藤艦長の後輩であることを非常に誇りに感じていることがひしひしと伝わってくる。だが、私たちも、日本人としての工藤艦長の後輩なのだ。それを忘れてはならない。


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