生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後

小熊英二

1944年11月、小熊謙二は、陸軍二等兵として入営のため野戦重砲兵大八連隊の兵舎に出頭。そこで世話役の古参兵から「お前たちは満州行きだ」と告げられる。謙二らは軍用列車、輸送船を乗り継ぎ、12月下旬に牡丹江に駐屯していた電信第十七連隊のもとに到着すると、軍務に就き、やがてソ連軍が国境を越えて侵攻してきた翌8月9日を迎える。当時、関東軍中央が侵攻を予測していなかったため、前線部隊も戦闘態勢をとっていなかった。そのため日本軍にとっては奇襲となった。関東軍から南満州への後退命令が下り、謙二らは空襲を避けながら列車で移動し、15日に奉天に着く。玉音放送は聞いていないが日本が降伏したという噂を耳にしたという。9月10日頃、謙二を含む日本軍はソ連軍の捕虜となり、1000人ほどの大隊に編成され、それぞれどこかへと移送されていった。第五二大隊に割り振られた謙二は、奉天北部の皇姑屯駅から貨車に乗せられ、シベリア連邦管区チタ州の州都チタに到着した。

チタは19世紀に帝政ロシアの流刑地だった場所だ。謙二ら日本軍捕虜はそこで収容所生活を始めることとなった。収容所は、捕虜の労働者を各企業体に派遣する独立採算の派遣企業のような様相を呈しており、現地の各企業体の要望に応じて捕虜を労役に派遣。捕虜の食費や光熱費、医療費などを差し引いた上で、捕虜に賃金を支払うというシステムがとられていた。そうした中で、特別な技能もなければ農作業や土木作業の経験もなく、要領も悪かった謙二に割のいい話があるはずもなかった。それでも、謙二は、シベリアから帰還することができた。その理由をこう語っている。「自分が生き残れたのには二つ理由がある。一つは、混成部隊に入れられて、収容所での階級差別がなかったこと。もう一つは、収容所の体制改善が早かったことだ」。とはいえ、シベリアに抑留された約64万人のうち、6万人が死亡したと言われている。謙二の収容所の死亡率は10%弱であり、死亡率10%は平均的な数字といえるため、彼のいた収容所が恵まれていたというわけではなかった。

日本に帰還した謙二は、その後、いくつもの職を転々としながら、結核と戦い、高度経済成長の追い風を受けてスポーツ用品店の経営を軌道に乗せる。そして、職を辞した後は、シベリア抑留体験者、特に日本国籍を持たない体験者がこれまで日本政府から補償されてこなかったことに疑問を感じ、国との訴訟のため立ち上がる。本書は、シベリア抑留のみにスポットを当てたものではなく、小熊謙二という人物の人生の中で体験したシベリア抑留を軸に、彼の半生を描いた作品だ。したがって、戦争体験記、あるいは社会活動記のどちらの面からも片手落ちの感があり、深みのある読み応えを期待するとやや物足りなさが残ることは否めない。岩波新書ならではの政治的視座という面も考慮すべきだろう。それでも、戦中、戦後を生き抜いた人物の史観が、必ずしも現代社会で高揚するナショナリズムと合致しないということは知っておかねばならないと感じた。


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