ヒトラーとナチ・ドイツ

石田勇治

第一次大戦後、敗戦処理と多額の賠償金に苦しむドイツ国内において、反ユダヤ主義極右政党ドイツ労働者党にアドルフ・ヒトラーはいた。のちの国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の立役者であるヒトラーの武器は、その卓越した弁説。最初に暗澹たるドイツの現状を静かに論じ、やがてその原因がどこにあるのか、なぜそんな苦境に陥ったのか、どうすれば失った未来を取り戻せるのか、世界を善悪二項対立の構図に置き換えて情熱的に語った。聴衆の憤りは自ずと悪へと向かうのだが、その「悪」としてヒトラーがやり玉に挙げたのがユダヤ人、マルクス主義者、議会政治家だった。党の実権を握ったヒトラーは、ミュンヒェン一揆などの危機を乗り越え、党勢を拡大。左右にヘス、ゲッベルス、シュトラッサー、ヒムラー、ゲーリングらを配し、ドイツ各地での過激な宣伝戦を重ねていきながら、ナチ党は次第に全国区へと進出していく。そして、ついにナチ党は国会で第一党に躍進。1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命し、ヒトラー政権が誕生した。

首相になったヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかったものが、授権法だった。「全権委任法」とも呼ばれるそれは、立法権が政府に託されるものであり、首相は国会審議を経ずにすべての法律(予算案を含む)を制定できるようになる。しかも、政府には憲法に反する法律を制定する権限までもあたえられ、憲法を改正したり、新憲法を制定したりする必要もなくなる。授権法の審議中、ヒトラーは、反対すれば政府の断固たる措置を招くだろうと突撃隊の介入をちらつかせて恫喝するなどして、賛成多数により授権法は成立した。また、ドイツに伝統的なヴァイマル憲法にも規定された地方分権・連邦制度を掘り崩す「全国均制化法」を制定し、全国を政府の統制下に置き、全国の政治指導者をナチ党の有力者、古参党員で固めることに成功した。政権発足から半年も経たないうちに、ナチ党を国会唯一の党とし議会政治を終焉させたヒトラー。1934年8月2日、ヒンデンブルクが世を去ると、大統領(国家元首)と首相の役職を統一した「総統」に就任した。ドイツはヒトラー総統の下、1939年9月、ポーランドに侵攻し第二次大戦へと突入していった。

ところで、社会がナチ化する中、国民が自由に安心して暮らすための基本的人権(人身の自由、住居の不可侵、意見表明の自由、集会の自由など)が損なわれてしまったのだが、国民が抗議の声を上げなかったのはなぜか。それは、ヒトラーの政治弾圧に当惑しつつも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」と諦め、事態を容認するか、目を逸らしたからである。その一方で、ナチ体制は「民族共同体」という情緒的な概念を用いて「絆」を創りだそうとしただけでなく、国民の歓心を買うべく経済的・社会的な実利を提供した。その意味で、ナチ体制は単なる暴力的な専制統治ではなく、多くの人々を体制の受益者、積極的な担い手とする一種の「合意独裁」を目指したという側面もある。こうして国民統合がなされていったわけだが、ゲッベルス率いる啓蒙宣伝省が発信するプロパガンダがヒトラーをカリスマ的指導者として祭り上げ、国民を扇動していったことは言うまでもない。

ナチ・ドイツを語る際、ホロコーストを避けて通るわけにはいかないだろう。ドイツが殺害したユダヤ人はヨーロッパ全体で少なくとも約559万6000人にのぼるとされているが、世界の文明をリードする立場にあったドイツがいったいなぜこうした残虐な蛮行に手を染めたのか。ホロコーストを引き起こした根底には、3つの考え方があった。極端なレイシズム(人種主義)、優生思想、反ユダヤ主義である。この理念のもと、ユダヤ人だけでなく、心身障害者や不治の病にある者、ロマ(ジプシー)、同性愛者、エホバの証人などに対しても徹底した迫害が行われた。そんな中で、ドイツ国民であるためにはアーリア人種の血が流れていなければならないというヒトラーの信念により、ユダヤ人に対する迫害が苛烈を極めたことは周知の事実だ。ドイツ国内に住むユダヤ人の財産没収、ゲットーへの収容、国外退去などをはじめ、ドイツ人のための「生空間(レーベンスラウム)」を求めて周辺諸国を統治下に収めた後、そこに民族ドイツ人(ドイツ国境外に住むドイツ国籍を持たないドイツ系住民)を移住させ、もともと住んでいたユダヤ人を追い立てた。このユダヤ人退去政策が行き詰まった結果設置されたのが、アウシュヴィッツをはじめとする絶滅収容所だ。

本書は、ナチの横暴を告発するものでもホロコーストを非難するものでもなく、感情論を排した中立的な視点で記述されている。ヒトラーが政治に目覚めナチ党党首、そして総統に就任するまでの時代背景が事細かく取り上げられており、引き込まれるように興味深く読める。一度党を離れたヒトラーが復権して、あれよあれよという間にナチ独裁政権を成し遂げていく過程は特に読みどころだろう。また、一般にナチ党を独裁足らしめたのはヒトラーの弁説や宣伝のみだとする解説を耳にすることがあるが、総統になってからヒトラーが失業対策などを通していかにして国民統合を成し遂げていったかに注目することで、時代がつくりあげた狂気について理解を深めたい。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です