ドイツ参謀本部-その栄光と終焉

渡部昇一

1618年に勃発した三十年戦争は、初めドイツのカトリック諸侯とプロテスタント諸侯の争いが中心であったが、いつしか周辺国もそれぞれの利害関係から介入し、ドイツ全土がこれ以上荒れようのない荒蕪の血と化した時に終結した。この三十年戦争の後、ヨーロッパ絶対君主同士による戦争は、外交の取引を多少とも有利にすれば事足りるので敵軍の撃滅は目的でないとする「制限戦争」の時代へと入る。要するに、戦闘をするのはあくまでも絶対君主の常備軍であり、市民や農民の平穏な生活を乱してはならないという暗黙の了解が生まれたのだ。だが、そうした時代においても風雲児は生まれる。それがフリートリッヒ・ヴィルヘルム一世(のちのフリートリッヒ大王)だ。何が風雲児なのかというと、彼は宣言戦争の時代においても戦闘を恐れない指揮官であったこと。七年戦争では、オーストリア、フランス、ロシア、スウェーデンを同時に敵に回し、人口比率的には30対1という勝ち目のない戦いでも首尾よく立ち回り、平和条約で領土的主張を通すことができた。その結果、彼の名は全ヨーロッパに響きわたることになる。

この制限戦争の時代を終わらせたのがフランス革命、そしてナポレオンの登場である。彼は、国民国家という新しい概念のもと、愛国心に満ち溢れた国民を大量に徴募して大軍を編成し、並み居る大国を次々と打ち破り、その迅速かつ圧倒的な進軍は瞬く間にヨーロッパを席巻していった。だが、ナポレオン軍の強さはナポレオン個人のリーダーシップに拠っていた。つまり、ナポレオンが指揮を取る軍隊は無敵だが、彼が不在の軍では相手が小軍勢ですら勝てなかったのだ。このナポレオンの限界に気づいた男がひとりいた。プロイセン陸軍のシャルンホルストだ。シャルンホルストは国民皆兵制度、新型の白兵戦、師団方式の軍編成、軍全体にわたる参謀制度の必要性を説きプロイセン参謀本部の形成の礎を作る。だが、彼の献策は国王の容れるところとならず冷や飯を食らわされ続ける。失意のうちに死んだシャルンホルストの後を継いだのがグナイゼナウで、彼は司令官の決定に対して参謀長は共同責任を負う制度を提案し、司令官と参謀長との一体感を醸成させた。一挙粉砕の勢いで攻めてくるナポレオン軍に対しは消耗戦で応じ、常勝だったナポレオンをライプツィヒの戦いで敗走させると、ワーテルローの戦いでは決定的な打撃を与え、ついにナポレオンを皇帝から退位なさしめたのである。

そして、ドイツをヨーロッパ最強の陸軍国としてのし上げた参謀総長モルトケ(大モルトケ)が登場する。モルトケは戦略を練る上でロジスティクス(兵站)を最も重視し、蒸気機関車による兵員の大量輸送を徹底的に活用した。「主戦場には可能な限り多数の軍を集中する」ことで、分散進撃方式というナポレオン式戦術を改め、鉄道輸送を駆使した包囲攻撃こそ至上とした。この作戦が大いに威力を発揮したのが、普墺戦争におけるケーニヒグレーツの戦いであり、この攻囲戦で兵力はほぼ同一だったところ、オーストリア軍の死傷者3万、捕虜1万5千に対し、プロイセン軍はその4分の1に抑えることができた。この勢いを駆って、プロイセンは普仏戦争にも勝利し、入城したパリでプロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝として戴冠した。参謀総長モルトケ、宰相ビスマルクのもと、向かうところ敵なしのドイツであったが、その一方で、革命を起こしたフランスが起こした義勇軍方式によって民族が憎しみ合うという要素が戦争に導入された点は興味深い。このモルトケの時代をピークに、ドイツ参謀本部は凋落の一途をたどる。かつての参謀本部は、リーダーとスタッフのバランスがうまくとれていたため十全に機能していた。だが、第一次大戦ではリーダーが弱くスタッフが強いというアンバランスにより敗北し、第二次大戦ではその反戦と反動から逆にリーダーが強すぎてスタッフが消されドイツは崩壊した。

いま、書店に入れば、必ずと言っていいほどリーダー論や成功哲学のハウツー本が平積みにされているのを見るが、そんな回りくどいことをせずとも本物の歴史から学ぶことのほうがリアルで説得力があるように思える。本書を読みながら、ドイツ参謀本部とは歴史と人間が時間をかけてつくりあげてきたものだが、まるで一個人の人生のような躍動感と悲壮感に満ちたドラマが見て取れた。実に意義深い一冊。一言一句、噛み締めながら読みたい。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です