スターリンの対日情報工作

三宅正樹

スターリンの対日工作としては、リヒャルト・ゾルゲの諜報活動がもっともよく知られている。しかし、スターリンの側では、特に1941年6月の独ソ開戦直後に、日本がソ連への武力攻撃に踏み切るかどうかを判断するに際して、ゾルゲの情報だけに全面的に依存していたとは考えられない。コードネームを「エコノミスト」と名付けられていた日本人経由で情報が伝えられていたという説もある。このエコノミストの正体は不明だが、ほかにも、日本の情報提供者は何人かいて、セルゲイ・トルストイに率いられた日本の暗号電報解読部門も大きな成果を挙げていたと考えられる。おそらくスターリンは、ゾルゲやエコノミストなど複数の情報を慎重に比較検討したうえで、極東ソ連軍の西方への移動を決断したのだろう。この謎の深いスターリンの情報工作の真相に、歴史学者の三宅正樹氏が迫る。

戦時中の日本の国家機密は、すべてソ連に、最終的にはスターリンに筒抜けであった。日独防共協定をめぐるベルリン駐在武官大島浩とナチ党の外交担当者であったリッペントロップとの秘密交渉の一切から始まって、対ソ戦争開始をさしあたり見送った1941年7月2日と9月6日の御前会議の議事にいたるまでだ。日独防共協定は、ワルター・クリヴィツキー率いる機関が、大島と参謀本部との間でやり取りした電報を傍受することでソ連に知れわたった。また、ゾルゲは、尾崎秀実や宮城与徳を通じて集めた日本の動向により、日本の対南方進出政策、独ソ戦に対する中立政策をスターリンの耳に入れている。

だが、超一級の情報をもたらした者たちに悲惨な結末が訪れる。クリヴィツキーは、スターリン支配の暗黒面を知り、続発する粛清事件に身の危険を感じ亡命を図るが、ワシントンのホテルの一室で銃殺された姿で発見される。すでに部屋は洗い清められていたため、自殺なのか他殺なのかの検証ができなかったという。また、ゾルゲは諜報活動が発覚して尾崎とともに逮捕されるが、尾崎はゾルゲがコミンテルン所属だと信じきっており、世界革命のために身を粉にして働いていたと思ったら、実はゾルゲは赤軍第四本部の情報員だったいう悲劇。尾崎は、コミンテルンの理想と極端に背馳する、ソ連一国のナショナル・インタレストに奉仕していたのだった。

クリヴィツキー、ゾルゲら飛び抜けた才能を持ったスパイが、日本に対するスターリンのさまざまな決定にどのような作用をしたのかは、これから追究されるべき事案だ。だが、それ以上に、スパイの暗躍を許した背景には、当時の日本の情報管理が拙劣であったことを見落としてはならない。近衛文麿首相の側近に、ゾルゲと緊密な連絡を絶やさなかった尾崎がいたのだから。こうした防諜に対する姿勢は、現在の日本政府にも符合するのではないか。歴史の闇を紐解いていきながら、現在の備えを強化していかなければいけないのはまさにこのことだろう。


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