八日目の蝉

角田光代

主人公が留守宅に侵入して赤ん坊を略取するという衝撃的な描写から物語は始まる。「薫」と名付けたその赤ん坊を我が子のごとく慈しみながら、野々宮希和子は千葉の友人宅、名古屋の開発地域で立ち退き拒否をしている老女宅へと身を寄せ逃亡を続ける。やがて、事件が新聞で報道されるようになり捜査の手が近づいていることを察知した希和子は、名古屋で移動販売をしている車の女性運転手に懇願し乗せてもらう。その車が向かった先は、エンジェルホームという女性だけが暮らす共同生活施設で、いまでいうところのカルト教団的な組織。そこで財産や名前など過去の一切を捧げた希和子は、薫と共に数年を過ごす。だが、元会員や家族とのトラブルにより外部からの査察が入ることとなり、素性がばれる危険性を悟った希和子は薫を連れてエンジェルホームを脱出。施設内で仲良くなった女性から受け取った別れ際のメモを頼りに、希和子たちは彼女の故郷である小豆島行きのフェリーに乗り込む。

物語には女性しか登場しない。希和子が身を寄せたところで世話をしてくれたのはことごとく女性であり、その先々でさまざまな年齢、性格、そしてバックグラウンドを抱えた同性たちに揉まれていく。もちろん、男性も登場するが、優柔不断、不倫、無関心、子育て放棄など、およそ男性らしくない、頼りなく情けない性別として描かれている。だが、それでも日本は男系社会であるし、男尊女卑の風潮は色濃くいまだ残っている。女性の地位はひと昔に比べて向上したとは言え、いまだ社会的弱者なのである。こうした、ある意味、現代社会を反映、というか異議を唱えたのがエンジェルホームだったのではないか。ホームでは名前や財産などのほか、性別すらも放棄しなければならなかった。そもそも女性だけが暮らす施設なのだから性差は関係ないのではという気もするが、入居に際しては流産や堕胎経験、夫からの家庭内暴力などの悩みを抱えているという条件が必要だった。こうした一生消えない心の傷を癒やすには、教祖様にすがることなどより、「性」そのものを捨て去る必要があったのだ。同様の過去を持つ希和子が、略取した赤ん坊に、男でも女でも通用する「薫」と名付けたのはそれと似たような思いが無意識のうちに浮揚したと読み取るべきだろう。

さて、タイトルの「八日目の蝉」であるが、作者の角田光代がそこに込めた意図は、逮捕された希和子に代わって薫が主人公となる第2章で語られる。希和子との逃亡生活が終焉し、本来の両親の元に戻った薫。本名の恵里菜で呼ばれるようになり、これまでのその日暮らしから一転し明るい家庭ですくすくと育ったのかというと、そんなことがあろうはずない。誘拐犯の連れ子というレッテルは剥がれることなく付きまとい、世間から好奇の目で見られるうち、できるだけ目立たず人目に触れないように振る舞うようになる。当然、家庭もおかしくなる。父は酒ばかり飲み、母は友人と夜遊びの毎日。妹だけは親しく接してくれたが、つねに家庭は崩壊一歩手前の状態だった。そんな中、彼女は「なんで私なの……!」という声にならない声をあげる。蝉は何年間も土の中で生活するにもかかわらず、地上に出たら七日間しか生きられない。それが普通であり、宿命であることを知っているからこそ蝉は精一杯鳴いて限られた生を謳歌する。だがしかし、彼女は自らを「八日目以降も生き残ってしまった蝉」だと嘆く。宿命から取り残され、一寸先も見えない生き地獄に放り込まれてしまった私。普通に皆と一緒に死んでいれば苦しみにまみれずに済んだ私。なぜ自分だけ不幸に苛まれなければならないのだろうか。

「でもね、大人になってからこう思うようになった。ほかのどの蝉も七日で死んじゃうんだったら、べつにかなしくないかって。だってみんな同じだもん。なんでこんなに早く死ななきゃいけないんだって疑うこともないじゃない。でも、もし、七日で死ぬって決まってるのに死ななかった蝉がいたとしたら、仲間はみんな死んじゃったのに自分だけ生き残っちゃったとしたら(略)そのほうがかなしいよね」

かつてエンジェルホームで一緒だった千草と再会し過去と見つめ合っていくうち、いまだ心の傷を引きずりつつも客観的な捉え方ができるようになっていた。それは、自らを縛る鎖からの解放ということではなく、赤ん坊だった自分を略取した希和子と自分自身を重ね合わせていたに違いない。大学生となった彼女もまた、希和子と同じ運命をたどっていたからだ。八日目以降の蝉は自分だけじゃない。希和子だってそうだし千草だってそうだろう。そんなこと言ってしまったら、人間すべてが八日目以降の蝉だ。七日ぴったりで死ぬような杓子定規の人生を送る人なんて誰ひとりいやしない。それは男女関係なく性差を超え等しく訪れる運命なのだ。恵里菜(薫)と千草は、かつての希和子の足跡をたどり小豆島へと渡った。その背後を、その運命を温かく見守る視線をおぼろげに感じつつ。


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