国際法で読み解く世界史の真実

倉山 満

国際法とは、文明国間が文明を守るためにつくられた法のこと。その文明とは、「人を殺してはならない。ましてや惨たらしく人を殺してはならない」を立脚点とする法の体系。では、文明とは何なのか。キリスト教徒あるいは白人が、非キリスト教徒にも有色人種にも自分たちのやり方を押し付けるための道具でしかなかった。そうした白人たちが自分たちの法を世界中に押し広めていくことで、最初はヨーロッパ諸国の法にすぎなかった国際法が文字通りの国際法となった。その国際法は、民法や刑法のような私たちがイメージする一般的な法律とは異なる。法律は政府が国民に強制する「強制法」である一方、国際法は国家間の合意によってできた「合意法」だ。基本的に国際社会、国際法においては、建前として、どの国も対等の存在であり、自力救済できることが前提。国際秩序の中には、国際法を守らない国に対して、合意を強制する仕組みや力がないからだ。

実のところ、国際法で大事なのは「条文として紙に書かれているかどうか」よりも「慣習として成立しているか」だ。条約を締結しても空文化したりしていて国際法として成立していない状態がある一方、国家間の合意が積み重なって守られ続け、慣習にまでなると容易に破ることができなくなる。著者の倉山満氏は、こうした特徴を持つ国際法を「仁義」と言い表す。もともと王様同士の約束(仁義)として成立したので、実際に守るかどうかの仁義、信頼関係のほうが大事だからという。さらに、ヤクザの世界と国際社会をなぞらえ、自分より強い相手から制裁されないための口実としての仁義を国際法に置き換える。仁義を破られ泣き寝入りすれば仁義は紙切れと化すが、仁義を破った相手を制裁できれば紙切れではなかったことになる。要は、自力救済することができる実力があるかどうかにかかっている。国際法の世界では、悪いこと(仁義違反)をした者より、それを咎め立てしない者のほうが悪いのだ。

こうした倉山氏の視点のもと、国際法を軸にした近代から現代にかけての歴史を紐解いていく。「国際社会は主権を持った国家の集まりだが、自力救済できない国は国として認められない」。こう見てみると、国際法とは平和を希求するための法だと思いがちだが、実際はウェストファリア体制で確立した王様同士の決闘、つまり仁義を拠り所とするヤクザ社会と変わるところがない。そうした中で、世界はどのような歴史を歩んできたのか、そして日本は今後どのような立ち回りをしていけばいいのか、国際法という観点から見直してみるととても意義深い気づきを得られるだろう。


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