熱海の花火大会会場の一角で、「僕」は漫才を披露していた。その漫才は、花火大会に華を添えるため企画されたものだったが、観客は若手芸人らを一顧だにせず観覧会場へ向け足早に通り過ぎていくだけだった。それ以前に、祭りのお囃子と花火の破裂音が大きすぎて、漫才など聞けたものではない。僕は相方の山下とともにネタを連ねていくが、敗北感は拭いがたく、持ち時間まで舌を振るいまくったところで何の充実感もなかった。そんな中、観客を感情的に怒鳴りつけるようなステージを繰り広げているコンビがあった。彼らのうちのひとり神谷から声をかけられ、呑みに行こうと誘われる。神谷は僕より4歳年上で強烈な個性を持つ人物だったが、妙に惹かれるものを感じ、僕は弟子入りを申し出る。快諾されるも、その条件として突飛な注文を出される。それは、神谷の伝記を書くということだった。僕は腑に落ちないながらも、この人に褒められたい、この人に嫌われたくないという思いから、神谷の意向に沿うこととした。
「漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」「漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなれれへん。(中略)憧れてるだけやな。本当の漫才というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」。僕と神谷の付き合いは、大阪から東京に進出してからも頻繁に続いた。たいてい吉祥寺の安い居酒屋で軽く飲んだ後、真樹という神谷の恋人が住む上石神井まで歩くのが恒例。会うたびに、神谷が自前の漫才論をぶち、僕はそれを聞いて納得したりツッコミを入れたりの日々だった。その後、僕は相方と小劇場でネタを披露し続け、少しずつだがテレビに露出しはじめ、都内だけでなく地方での仕事も増えてくるようになった。そうした努力が実っていき、知名度も上がり、生活は以前と比べるほどもなくよくなった。そんな中、神谷の相方から、神谷と連絡がつかなくなったとの連絡が入る。
ジャンルとしては純文学になるのだろうか。物語として特に大きなヤマ場があるというわけではないため起伏に乏しく、展開に引っ張られるというタイプではないため、場面場面を噛みしめる読み方をしないと充実した読後感が得られないと感じた。それに、物語は「僕」という一人称で進行していくが、神谷の個性が強すぎるため、僕の存在感が埋没していき、単純に第三者的な視点で神谷を映し出しているというようにしか思えなかったというのが正直なところだ。最終的に、僕は師匠と仰ぐ神谷の生き方をどう伝記にするのか。言うことは一丁前で行動力もあるが最大限に要領の悪い神谷は本物の漫才師として自分をどう後世に残そうと画策するのか。心地よい余韻を与えてくれる佳作とは言えるかもしれない。