「レイプ」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、おそらく見知らぬ人から突然夜道で襲われるような事件ではないだろうか。しかし、内閣府の2014年の調査によれば、実際にまったく知らない人から無理やり性交されたというケースは11.1%。多くは顔見知りから被害を受けるケース。警察に相談に行く被害者は全体の4.3%にしか及ばず、そのうちの半数は見知らぬ相手からの被害だ。顔見知りの相手から被害を受けた場合は、警察に行くことすら難しいことがわかる。そしてもし犯行時、被害者に意識がなかったら、いまの日本の法制度では事件を起訴するには高いハードルがある。著者の伊藤詩織氏は、ジャーナリストを志し米ニューヨークで活動している中、当時TBSのワシントン支局長だった山口敬之氏と出会った。山口氏とインターンシップのことで連絡を交わすようになり、日本で直接会って話をする機会を得た。2015年4月、恵比寿の寿司屋で会食中、伊藤氏はトイレに立ちそのまま記憶を失ってしまう。激しい痛みとともに意識を取り戻すと、自分がホテルのベッドの上にいて、山口氏によって犯されている光景が目に飛び込んできた。頭の中が真っ白になりパニックになった。それまで、性犯罪がどれほど暴力的か破壊的か、まったく知らなかった。
山口氏はTBSのワシントン支局長で、長い間政治の世界で仕事をしてきたため、有力な政治家たちだけでなく警察にも知り合いが多いと聞いていた。それだけではない。伊藤氏が毎日通っていたロイター通信社の主な業務は、マスコミ各社への情報配信だ。もちろんTBSは大事なクライアントで、しかもロイターのオフィスは赤坂のTBS本社のすぐそばにあった。もし伊藤氏がひとりで警察に相談したり彼を告発したら、果たしてこの先同じ業界で仕事を続けることができるのだろうか。TBSが山口氏の盾となり、逆に名誉毀損で訴えてくるかもしれない。そうなったら、一体どうやって身を守ればいいのだろうか。また、その時点では強制的に性行為が行われていたことはわかっていても、それがレイプだったと認識することができなかった。混乱する伊藤氏だったが、親しい友人と相談しながら山口氏とメールでやりとりをしつつ、警察に届け出て事件として捜査してもらうこととなった。だが山口氏は何事もなかったかのように慇懃に受け流し、あの日の出来事がレイプであったとは認めない。また、警察の捜査も上層部からの手入れがあり不起訴処分となってしまった。
日本においては、性犯罪を立証するのはとても難しい。日本の刑法では被疑者の主観を重視する傾向があり、当然被疑者が犯行を認めることは稀なので「合意のもとだった」という主張が通ってしまう。結局、密室の中で起こったことは第三者にはわからないのだ。これが本書のタイトルでもある「ブラックボックス」と呼ばれるゆえんである。伊藤氏は、法廷で争う準備を進めながら、レイプ被害に遭った人や家族を失った人たちと連絡を取り、自らの置かれた立場を世界的な視野で俯瞰していく。そんな中、会見を開いて実名を公表したことで、ネット上にいわれなき中傷や悪説がばらまかれ、最愛の妹から口を利いてもらえなくなってしまった。このように、レイプ被害に遭い、警察に訴えることも家族に打ち明けることもできず、憤悶のうちに自ら命を断ってしまう人やPTSDと闘い続けている人もいる反面、争う決意をしたらしたで伊藤氏のように外野からの根拠なき圧力にさらされてしまう人もいる。レイプに限らず、電車内での痴漢、企業内でのパワハラやセクハラも同じ影響をもたらしている現実がある。
正直、私にレイプ被害女性を救う手段は見つからない。しかし少なくとも男性である私にできること。それは、女性の苦しみが何なのかを理解するよう努めることなのだろうと感じた。