コーヒーが冷めないうちに

川口俊和

「その席に座ると、その席に座っている間だけ望んだ通りの時間に移動ができる」。とある街に、そんな喫茶店がひっそりと佇んでいる。ただし、誰でもが気軽に過去にタイムワープすることができるわけではなく、大変面倒なルールがいくつかある。過去に戻っても、この喫茶店に訪れたことがない者に会うことはできない。過去に戻っても現実は変わらない。過去に戻れるのは、コーヒーをカップに注いでから冷めるまでの間だけ。これらのルールにより、一時期、過去に戻れることを魅力に感じた客が押し寄せたこともあったが、いまは数人のスタッフと、これまた数人の常連客しかいない。本書は、そんな喫茶店で湧き起こった4つのストーリーを収録。狭い喫茶店の中で生み出された人間模様が、過去という時間軸を巻き込んで描かれる。

ひょんなことから、この喫茶店をしばしば訪れることになった二美子。当時付き合っていた五郎といつも同伴していたのだが、ある日、急に「過去に戻りたい」と切り出す。二美子は竹を割ったような性格のキャリアウーマンで、これまで過去を振り返るなどという後ろ向きなことはしたことがなかった。その反面、好きな異性に好きと言えない女性らしい面も持ち合わせている。過去に戻りたいのは、自分を置いてアメリカへ転勤してしまう五郎を引き止めたいからだという。過去に戻るルールは知っている。現実は変わらないことも知っている。すべてを承諾した二美子の前にコーヒーが注がれ、立ち込める湯気とともに二美子は、あの日、五郎が別れを告げた日へと戻る。

その後、夫婦関係にある常連客同士が繰り広げる記憶をめぐるエピソード、老舗旅館の継承に関してこじれた姉妹関係を清算するエピソード、スタッフが抱える出産と母体をまつわるエピソードが続く。「過去に戻る」という題材は、エンターテイメントにおいて割とよくあるものだが、奇を衒わず、王道的な展開に終始し、緩やかな起伏を経て終幕へと向かう。インパクトという観点からは今ひとつという印象はあるが、群像劇として見れば、登場人物の感情や性格を細かく透かしあげており、女性的な筆致に感じた。心穏やかに、静かな場所で読みたい本としてこれ以上の作品はないだろう。


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