「ベル・ダーキンも――そしてマイルズ・ジェントリーもいない世界、いやベルだけはぜったいにいない世界が来るまで、まどろみつづけることができるのだ。ベルが死んで埋葬されてしまえば、あいつを忘れることができる、あいつがぼくにしたことを忘れることができる、あいつを抹殺してしまえる……あいつがほんの数マイル先にいると考えるだけで、ぼくの心が苛まれることもなくなるのだ」。主人公のダニエルは、愛猫のピートと共に長期低体温法睡眠(ロング・スリープ)を使用し、いま現在の1970年から冷凍保存による眠りにつく。西暦2000年に目覚めると、周辺の環境が激変したことはもちろん、かつて映画(ムービー)と呼んでいたものが動映(グラビー)になったなど語彙が著しく変化していたことにも驚く。だが、ダニエルをもっとも驚かせたのは、「ばんのうフランク」だった。ばんのうフランクは、ロング・スリープにつく前、エンジニア時代に原型を作ったもの。それがいま、ダニエルの目の前で、コーヒーを注ぎ、本来人間がする仕事をこなしている。いったい誰が、ばんのうフランクをここまで進化させたのだろう。ダニエルは、眠りについていた30年間のうちにあった事実について、使命感に似た関心を引かれていく。
そんなダニエルには、もうひとつ気にかかることがあった。愛しいリッキーの存在だ。30年前、唯一の家族ともいえるリッキーに、高騰しているであろう自社の株式を譲渡する旨の証書を残してきた。それをちゃんと受け取っているだろうか。憎きベルやマイルズによって騙し取られてはいないだろうか。居ても立ってもいられなくなったダニエルは、再びロング・スリープを使用し時間を遡る。
かつてダニエルとピートが住んでいたコネチカットの家には、外に出るドアが11もあった(ピート専用のドアも含めれば12)。ピートは普段は自分専用のドアを使うが、人間用のドアの少なくともひとつは夏の世界に通じていると信じて疑わなかった。ドアを開けてやって、ピートがその向こうは冬であることを納得すると、また次のドアのところへ行く――。外と内とを仕切るのがドアの役割なら、開けた先の世界が普段通りであることを保証するのもドアの役割といえるだろう。だけど、タイムスリップなどない現実の世界に住んでいる私たちの身の上に、季節は冬なのに、いつも通りドアを開けたら、その先に夏真っ盛りの世界が広がっていたとしたら。にわかには信じられない、でも信じていいかもしれない。タイムスリップものの作品は掃いて捨てるほどあるが、そんな中でも、夢は夢だと醒めた気分になることなく楽しみながら一気に読める秀作だと感じた。