北海道を守った占守島の戦い

上原 卓

終戦の聖旨から3日後の昭和20年8月18日、千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が侵攻してきた。同地に駐屯していた第91師団も他の日本将兵と同じく、敗戦の無念を胸に武装解除を進めていたのであったが、この急報を受け2万4000余の将兵は敢然と立ち上がる。本書は、占守島の戦い終盤において、停戦交渉軍使としての大任を果たした長島厚大尉にスポットを当て、当事者の証言や膨大な史料を通して、戦いの発生から経過、終焉に至るまでドキュメンタリータッチで描かれている。

「天皇が行った降伏の発表は単なる宣言に過ぎない。日本軍による軍事行動停止命令は出されていない。天皇が軍事行動停止を命じ、日本軍が武器を置いたときにのみ降伏と見なされる。したがって極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する」。これが、スターリンによる、ポツダム宣言を受け入れた後の日本を侵略するための言いぐさである。もっともらしいことを言っているようではあるが、その実、スターリンの本意は、千島列島のすべてと、北海道の北半分を占領することにあった。ソ連は終戦間際、突如として日ソ不可侵条約を破棄して満州と南樺太を非人道的に蹂躙している。今回の占守島侵攻の目的が、単なる一島の占領ではないことは第91師団の誰もが分かっていた。

18日未明、ソ連軍が占守島北端の浜辺に上陸してきたのを機に開戦。初めは日本軍が優勢だったが、次第に兵数で勝るソ連軍が盛り返してくる。このままだと押し切られてしまうその瀬戸際で、池田末男大佐率いる戦車第11連隊が参戦。勇猛な進撃はソ連軍を大いに恐れさせ、戦線を押し返すことに成功する。その後、堤不夾貴師団長により長島大尉が停戦交渉の軍使に命じられ、ソ連側と数度にわたって交渉。占守島の戦いを勇猛果敢に戦い抜いた日本軍は停戦即武装解除する。だが、降伏した日本将兵に対するソ連の仕打ちは、ヨーロッパおよびシベリアへの、強制労働という名の抑留であった。

こういった書に接するたび、つねに思うのが、なぜ日本のために生死を顧みず戦った英雄のことを学校で教えないのだろうかということ。この占守島の戦いに限って言えば、北海道だけでなく日本国そのものを救った戦いであったと言っても決して間違いではない。もし当時ソ連軍の侵攻を許していたら、現在の日本地図は違う色づけがなされていただろう。祖国防衛のために命を落とした旧帝国軍人のおかげでいまの私たちがいることを学校教育で取りあげずして、どうやって「明日の日本を背負う人材」を育成していくのだろうか。

「われらは、大和民族の防波堤となり、歴史のその名を留める」。戦車隊を率い戦死した池田連隊長が出陣の際に叫んだ言葉だ。これを聞いた将兵たちは「おおーっ」と一斉に雄叫びを上げて応じたという。これから死ぬかもしれないというのに、彼らは血が逆流するような昂奮を感じ、最高潮の士気のもと祖国日本のため戦地に赴いたのである。偽善的な平和主義一色で染められたいまの歴史教育を考えると、私たち日本人から奪われていったものの大きさがよく分かる。


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