顔のない独裁者 「自由革命」「新自由主義」との戦い

さかき漣、三橋貴明

201X年、日中両国は尖閣諸島の領有権争いの末、「極東戦争」に突入。はじめは練度で勝る海上自衛隊の活躍により中国軍を撃退していた日本であったが、北朝鮮の参戦により戦局は次第に中国有利に傾く。日米安保条約を根拠にアメリカに援護を要請する日本だったが、アメリカ大統領はこの申し出を拒否。自国から遠く離れた小島の防衛と国益が釣り合わないというのだ。そんな中、日本国内では「即時停戦」を訴える左派政党が総選挙で圧勝。外国人への参政権付与や官僚職の開放など、国民が望んでもいなかった法案を次々に成立させていき、最終的に中国大陸、朝鮮半島と連邦制を敷く平壌条約の締結に合意。以後、日本という国名はなくなり、「大エイジア連邦第三地域」という通し名で呼ばれることとなった。

連邦の主導権は、ほぼ第一地域、つまりかつての中国が握っていた。この独占的な権力構造はやがて破綻をきたし、各地域で暴動が頻発するに及ぶと、第一地域での北京派と上海派の衝突を機に、連邦は大混乱状態に陥る。第三地域でも例外でなく、誇りと伝統ある日本を取り戻そうと、レジスタンス組織「ライジング・サン」を中心に民衆が立ち上がる。こうした運動が実り、ついに連邦制は瓦解。第三地域の民衆は、本来の日本として再出発できる歓喜に酔いしれた。その大歓声の中心にあったのが、ライジング・サンのリーダー、駒ヶ根覚人。通称“GK”だった。

その後、GKは新党自由日本を率い総選挙に挑む。結果は、友党の憲政党と合わせて圧倒的大勝利となり、国民からの絶大な指示のもと内閣総理大臣に就任した。救国の英雄を頂点に据え、これで日本が復活すると笑顔と安堵に浸っていた国民であったが、GKによる国政がスタートするやいなや、彼が繰り出す経済自由化なる政策の数々に次第に眉をひそめるようになっていく。「政府の無駄を排そう、未来の日本国民のために」という耳あたりの良い言葉に引き続き、参議院の廃止、衆議院の定数削減、大選挙区制が実施された。これにより、GKの権力が強大化。さらに、道州制の導入、そして域内での自由貿易を可能にするPU(太平洋連合)の結成に踏み切る。やがて、独立採算制を敷く各道州間での格差が露呈し始めるとともに、利益のみを追求するグローバル企業、そして安い労働力が次々と流入してくる中で、日本人は瞬く間に生きるすべ、そして希望を失っていく。

道州制によりエリアごとに切り取られ、自己責任の名のもとに他道州を牽制し合う中、国民としての帰属意識が薄れていく国家像。徹底的に「効率」を求める新自由主義的な政策により、発送電分離、警察・消防といった地域サービスの株式会社化、自由診療の拡大による医療費の高額化などが実現した国家像。すべては株主の利益最大化のためという、およそ日本人の気質にそぐわない欧米的な価値観を刷り込まれてしまった国家像。日本は古来尊んできた国柄を捨て去ってしまったのだ。こうした国家に未来があろうはずがない。折しも、旧宮崎県で巨大地震が発生し、揺れと津波で多くの人命が失われた。だが、政府は国としての援助はせず、その代わりに「救助活動が遅れているのは州の自己責任だ」とうそぶく。地域の土建業者はあらかた倒産していた同州は、PU域内の建設業者に一般競争入札で復興のための建設を依頼するが、彼らはまだ揺れのおそれがあるとして動かない。また、すでに株式会社化していた消防も、職員に危険が及ぶとして被災地入りを拒否した。こうした現実を目の前にし、すべての日本人の間でGKに対する怨嗟の声が広がっていき、かつてGKのもとで戦った秋川進と涼月みらいが立ち上がる。

企画・監修が三橋貴明氏ということで、ストーリーの骨格は、三橋氏が日頃ブログを中心に警告している内容からなっている。日本の国柄を破壊する道州制はもとより、非関税障壁を撤廃したPU、つまりTPPの加入により、日本国内の労働市場は外国からの安い労働力によって破壊され、土着の企業は駆逐もしくは外資に買収され、経営者や投資家の利益のためだけに働かされる経済奴隷に陥るというものだ。電力事業の分社化も含め、こうした政策というのは現在進行形で進んでいることを考えると、必ずしもフィクションとは断じ得ない切迫した恐怖感がある。それに、一度始めてしまったら二度と元に戻すことはできない。それは矛盾だらけのEUを見れば明らかだし、各地で締結され不平等が叫ばれている自由貿易協定、ハリケーン・カトリーナ後のショック・ドクトリンからも明らかだ。

本作は三橋氏と作家のさかき漣氏のコンビによる4作目(「コレキヨの恋文」「真冬の向日葵」「希臘から来たソフィア」)。さて、内容についてだが、エンターテイメントとしての文学作品というより、どうしても三橋氏の主張が先で物語が後づけされたものという印象は否めない。物語の面白さから近い未来に起こりうる惨劇を読み取るという姿勢ではなく、三橋氏の主張、つまり新自由主義的な政策の危険性を物語調で知るというスタンスで手にとったほうが良いと思われる。リアリティを伝えるのは、必ずしも物々しい演出が必要ではないと感じた一冊だった。


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