国益に反した報道をしばしば繰り返すとして、テレビや新聞をはじめとする日本の大手マスメディアは「反日メディア」だ糾弾する声が強まっている。著者の古谷経衡氏はこうした反日報道を垂れ流す源泉には2つの潮流があるとして、「確信的反日」と「無自覚な反日」をあげる。前者の「確信的反日」とはイデオロギスト(左翼)による意図的でわかりやすい犯行であり、それはそれで怒りを禁じ得ないが、むしろ問題なのは後者の「無自覚な反日」であるという。無自覚ということは、その字義のとおり、彼らが制作した報道番組の内容において反日や偏向の要素が含まれていても、糾弾されるまで彼ら自身「虚偽の報道を行っている」という自覚がないということだ。では、なぜ日本のマスメディアは視聴者の意に反する報道を行うようになってしまったのだろうか。
メディアが行った反日報道は、ここ数年で問題になっただけでも枚挙にいとまがない。「毎日新聞変態記事事件」「安倍晋三印象操作事件」「朝日新聞サンゴ礁捏造事件」「浅田真央転倒パネル事件」。これは主だった例にすぎないが、そのつど視聴者や読者の逆鱗に触れるのは、日本の伝統や文化の軽蔑、日本を代表する人物の中傷、または先の大戦(大東亜戦争)に対するネガティブな報道といった点でほぼ一致する。反日というと、国家ぐるみで日本を貶める活動を世界中で行っている韓国が想起され、日本国内のメディアが反日行動を行うと必ずと言っていいほど「内部に在日がいる」「韓国に株を買い占められている」などといった悪玉論が飛び交う。だが、ここで外部からの圧力や陰謀に遠因を見定めようとすると、そもそもの根源を見誤ってしまうと古谷氏は警告する。韓国が推進しているのは「確信的反日」であり、「無自覚な反日」に陥っているのは日本国内のメディア。つまり、我々日本人を足を引っ張り続けている者は外部ではなく内部に存在するというのだ。
それを表した端的なエピソードして、朝日新聞のツイッターアカウントが「東京五輪落選」の誤報を流した例があげられる。2020年のオリンピック開催地を決める決選投票の際、「東京、落選しました。第一回の投票で最小得票。決選投票に進めませんでした」というツイートを流した。結果はもちろん東京の当選だったわけだが、いったいなぜ朝日新聞はそれと正反対の情報を発したのか。それは東京が落選したほしいという願望が表層化した結果であり、その根底には反国家・反権力の社是から国威発揚を拒否する考え方があり、そのため東京五輪は到底容認できないとする絶対的姿勢が発露したと古谷氏は見る。困ったことに、この報道姿勢は朝日特有のものではない。NHKも日テレもTBSもフジテレビも、日本人アスリートが世界で大活躍したり歴史的偉業を達した報道をすると、日本国内で国威発揚が高まって日本が右傾化し戦前に回帰するとして、トーンダウンした報道に徹する。浅田真央のウイニングランカット、なでしこジャパンのW杯優勝の表彰式カットがいい例だ。
では、こうした報道姿勢を貫くのはなぜだろう。簡潔に言ってしまうと、メディアの人間は我々市井の人間と皮膚感覚が相当ずれているのだという。報道という世相に敏感であらねばならないはずのメディアが視聴者や読者の意を汲めないというのはおかしな話だが、実際のこととしてテレビ局や新聞社に勤めている人間は「公共性」という王様のガウンを着た、象牙の塔の住人なのだ。戦後、政府に対するご意見番という名の「反体制」の旗手として国民から得た絶大な信頼から優越感をほしいままにしたメディアは、その特権意識を育んでいくにつれ、一般国民としての常識を失っていった。それが如実に現れているのが、メディア関係者が犯す犯罪率の高さだ。それも粗暴犯や性犯罪といった野獣のような犯罪が特に多いという(特にNHK)。このように、知能の欠片も感じさせない犯罪を犯す一方で、彼らが金科玉条のごとく押し抱いているのが、戦前戦中はさんざん政府や国民を煽っていたにもかかわらず、戦後になると手のひらを返したかのように政府に責任を押し付け、自らへの戦争責任の追求を巧みに回避したという歴史。象牙の塔という閉鎖的な空間の中で、彼らが制作したメディアコンテンツに「公共性」があるのかどうかという検証が無自覚に切り捨てられているのではないかと思わずにはいられない。
メディアの報道を鵜呑みすると、グローバル化の時代にもかかわらず、判断を誤ることが多いと感じています。
特に政府発表の情報を(政府の意図を含めて)、メディアとしての見識が乏しくそのまま報道するのでは、全く戦前と同じか国民の立場を余り考えていない配達屋さんと同じだと感じています。それでは的確な判断ができない為、海外の論評や他の情報を集めることによって本質を認識するようにしています。
山好き太郎さん、コメントありがとうございます。
まったく同感です。日本には数多くのテレビ局、新聞社があるはずなのに、それらが(一部の例外をのぞいて)淘汰されず寄り合い所帯のようになっていることは問題ですね。私はテレビもなければ新聞もとっていないのですが、情報を判断する際はネットを駆使してできるだけ多くのチャンネルを活用するようにしています。いつかこういう流れが既存メディアをひっくり返すかもしれませんね。