まともな日本再生会議:グローバリズムの虚妄を撃つ

中野剛志、柴山桂太、施光恒

バブル経済が崩壊してから現在に至るまで、「改革! 改革!」の大合唱のもと、日本社会のさまざまな制度や慣行の変革が行われるようになった。その改革の下敷きとなるものが「グローバル・スタンダード」。日本はその旗印のもと、世界のトレンドであるグローバル化の波に乗り遅れまいと、郵政事業の民営化や派遣労働の解禁、会計基準の変更など、長きにわたって培ってきた日本ならではの伝統を打ち壊していった。だが、その結果、私たちの暮らしは良くなったであろうか。少しでも住みやすい国になったという実感はあるだろうか。本書は、中野剛志、柴山桂太、施光恒の3氏が、こうした「改革」や「グローバル化」が孕む違和感に適切な言葉をあたえることを目的に企画された鼎談集だ。

全編を通して、グローバリズムに基づいた新自由主義的な政策に対する苦言という体で進んでいき、まず第一章では現在の安倍政権が掲げる成長戦略の理念を槍玉にあげる。海外でナショナリストと認識されている安倍は、「日本経済を強くします。世界一を目指します」という演説をぶって戦略を展開しているが、この「世界一」という発想自体、世界の基準はひとつで文化の優劣を前提にしていると指摘。これは、グローバルな競争の場でGDPの順位や金メダルの数を争って民族の優劣を決める「ランキング・ナショナリズム」であり、すでにグローバリズムに毒されている故であるという。国ごとの多様性が生み出す価値の違いを尊重する、本来のナショナリズムとは異なるのだ。これにより、英語公用化、移民政策、企業が人件費をカットしやすくする政策などが出てくる。

このまま改革、つまり日本をグローバル・スタンダードに近づけていく試みが進んでいくとどうなるのか。明治期の日本は海外から取り入れた知識をそのまま受け入れるのではなく日本語に翻訳して知識を「国産化」していった。日本人は自らの言葉で独自の仕様に合わせた研究開発をすることを怠らなかったため近代化にいち早く成功したわけだが、これからは外国人が書いた英語の仕様書を使うとなると日本的なものはもう作れなくなる。つまり、日本が国柄を失う。アイデンティティを喪失した日本人は外から「日本は鎖国している!」と強く出られると反論できず、何でもかんでも自由化・規制緩和して外資の食い物にされてしまい、そうなると日本は日本人のものではなくなってしまうだろう。

では、これからの日本が歩むべき道は、グローバリズムとは決別し、完全に独自の「ガラパゴス列島」を目指すことなのだろうか。いや、それは経済的な理由以外のさまざまな面でボーダーレス化が進んでいる現代においては逆に自殺行為であるし、何より日本人自身がそれを望まないだろう。なら、どうすればいいのか。それは当の日本人が何がまともで何がまともでないかを皮膚感覚で捉えるセンスを身につけること。その「まとも」の基準となるのが日本の歴史や伝統、共同体のことであり、要するに自らが日本人であるという自覚なのではないか。民主党をまともでないと判断した日本人が彼らを政権から追放したように、今後もまともな感覚を持ち続けながら政治を監視していかなければならない。グローバリズムの浸透とはつまり、日本人からまともな判断力を奪っていく過程のことなのだから。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です