日本史の謎は「地形」で解ける

竹村公太郎

歴史の教科書には「1603年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は江戸に幕府を開いた」という記述はあるが、“なぜ”それまで日本の中心だった大阪や京ではなく江戸だったのかについての説明はない。豊臣秀吉によって一方的に命令された江戸転封は、徳川家の家臣のみならず家康自身も屈辱に感じていた。それにも関わらず、家康が幕府開闢の地を江戸に選んだのには必ずそれ相応の理由があるはずだ。当時の江戸は平野ではなく湿地帯で、水はけの悪い不毛の土地だった。そのため、家臣らは希望を見出せず激昂したのだが、家康のこの地にこそ宝物を見出した。利根川、荒川が流れ込んで水はけが悪く、雨のたびに浸水する劣悪な土地ではあるが、利根川を遠くへバイパスさせ水はけさえ良くすれば肥沃な水田地帯となる。つまり、現在でいうところの土壌豊かな関東平野が現出するというわけだ。

天下人になったのだから、新しく幕府を開く土地として、わざわざ辺鄙な江戸ではなく、大阪や名古屋、三河でもよかった。それでも家康が江戸に執着した理由として、著者の竹村公太郎氏は、上記のほか、「家康は根っから戦う人だった」という前提のもと、人生最後の強敵に利根川を選んだという観念的なものとともに、いくつか興味深い理由を挙げている。森林が伐採され尽くされ土地としてのエネルギーを失っていた近畿を捨て、利根川流域の手つかずの森林に未来を感じていたということ。御所のある京から遠く離れた江戸に幕府を樹立したことで権威と権力の分離を図り、権威者は権力を振るわず権力者は権威を転覆しないというロジックを確立したことなど。とにかく、権力を握った者がどこを本拠地としたかは興味ある歴史のテーマだ。その本拠地を見れば権力者が何を考えていたかをうかがい知れるし、それ以前の権力者から何を学んだかも推し量ることができるからだ。

このほか、赤穂浪士の討ち入りが成功した理由や吉原遊廓が移転した理由、栄華を誇った奈良が衰退した理由、大阪に緑地が少ない理由など、日本史上の興味深いトピックがラインナップされている。中にはこじつけのように感じられる箇所も散見されたが、建設省職員であった竹村氏の地形、気象、インフラに関する深い知見と経験に基づいた視点はとても勉強になった。歴史は歴史であり、タイムマシンが開発されるまでは、過去の真実を知ることなど到底不可能だ。であるなら、史料や文献などから知れる客観的事実から逸脱していない限り、さまざまな視点からの解釈・論考があっていいわけだ。歴史を学問と捉えるか娯楽と捉えるかで本書の評価が違ってくると思うが、少なくとも私にとっては「歴史は面白い」ということを体感できた一冊であった。


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