帝王学―「貞観政要」の読み方

山本七平

「草創(創業)と守文(守成)いずれが難きや」。中国唐代に編纂された『貞観政要』は、太宗(李世民)による理想的な統治について記されたもの。日本には桓武天皇の頃(800年頃)に輸入され、帝王の必読書として天皇だけでなく、北条、足利、徳川氏らが用い、その後民間でも知識人を中心に広く読まれた。その主題とされているのが「創業」と「守成」。創業は、まったく新しい国をまったく新しい制度のもとで始めるという意味ではなく、前王朝末期の混乱を統一し立ち直っていく継承的創業。守成とは、組織ができあがった状態でそれをどう維持していくか、である。これを貞観政要のモデルである太宗に当てはめると、創業が隋末の戦乱平定から玄武門の変までで、守成が唐を統治して平和を維持していく流れとなる。玄武門の変に勝った太宗は、魏徴、王珪という人物を得た。かつての敵にもっとも忠実であり、また遠慮なく直言していた者たちを自分の近いところに置き重用したのだ。裏切り者やあやふやな者は利用はできるものの信頼はできないが、敵であっても誠心誠意忠実だった者は、自分との間に信頼関係が確立すればもっとも信頼できる部下になると考えた。これは世界史におけるリーダーにも共通していて、ローマ皇帝アウグストゥスにも同様の事例が見られる。

皇帝といった大権力でなくても、何かの権限を持つと、人間はどうしても情報遮断の状態になるが、自ら不知不識のうちにこの状態を招来して、一方向の情報しか来なくなってしまう。実はそれが滅亡、失敗、失脚の第一歩なのである。国民が主権者に等しい社会でもこれは同じで、一方向の情報しか来ないか、来ても、他は耳を傾けようとしなければ同じことになる。太宗は、神経質なくらいこれを怖れた。「君の明らかなる所以の物は兼聴すればなり。その暗き所以の物は偏信すればなり」。兼聴は多くの人の率直な意見に耳を傾け、その中からこれはと思う意見を採用すること。偏信はひとりの言うことだけを信用すること。取り巻きのイエスマンは排除し、たとえ身分が低くても良い意見は積極的に採用するかどうかが、名君か暗君かの違いとなり、リーダーとなる者にとって最重要な要件のひとつとなる。

やがて、創業的体制から守成的体制に切り替えねばならない時期がやって来る。だが、創業の能力者は必ずしも守成の能力者ではない。功のあった者をそのまま横滑りさせてはならないからであり、その処遇をどうするかという問題が出てくる。魏徴は、部下を信用せず権限も委譲しなかった隋の文帝を反面教師とし、統御への基本的心構えを「十思」「九徳」として太宗に説いた。詳細は本書を参照されたいが、その要旨は「リーダーは十思で自らを統御し、部下の九徳を広め、能力のある者を適材適所で任じ、善い者、正しい者の言葉で身を正せば、全員がその能力を発揮する」ということ。これは何も唐に限った話ではなく、現代社会においても大いに共通する。たとえ個々の能力が高くても上層部が部下の意見に耳を傾けなければ社業は潰えるし、かといって強大なリーダーシップを持った人物がひとりいたところでそれに直言し諌める部下がいないと独裁状態となって誰も付いてこなくなってしまう――。リーダーになるための自己啓発本は多々ある。しかし、現代のモデルに沿った状況把握ももちろん大事だが、それ以上に人間の行動は歴史に学ぶという姿勢を貫くことが重要であると気付かされる一冊だと感じた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です