竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ

1945年7月の終わり、朝鮮北部羅南にて何不自由なく生活していた川嶋一家のもとに、懇意にしていた軍人、松村伍長が真夜中に訪れてきた。彼は「すぐに避難してください。まもなくソ連兵が上陸してきてあなたたちを殺しに来るでしょう」と血相を変えて急き立てる。ソ連は日本の敗色が濃くなった頃合いを見計らい、一気に雪崩れ込んでくるというのだ。本書の著者であり主人公の擁子、母、姉の好(こう)は、満洲にいる父、兵器工場で働く兄・淑世(ひでよ)の身を案じつつ、松村伍長が口を利いてくれた病人用車両に乗るべく羅南駅へと向かった。

擁子たちは羅南から京城、釜山、それから祖国日本へと戻るという引き揚げルートを策定するが、ことはすんなりと運ぶわけがない。羅南駅から乗り込んだ無蓋貨物車両には、傷痍軍人や重度の病人、妊婦らが所狭しとゴザに横たわっており、文字どおり立錐の余地もない。これが、これまで裕福な暮らしをしてきた擁子に突きつけられた「戦争」という現実であった。その後、機関車が空爆を受けたことにより、線路づたいに京城を目指さざるを得なくなった擁子たち。途上、朝鮮人暴漢に見つけられるが間一髪で難を逃れるなど、数々の苦難を乗り越え、なんとか京城にたどり着く。敗戦を知り、意気消沈とする擁子たちであったが、内地へと帰還するにはこの大混乱を自分たちの力だけで切り抜けねばならないということを知る。

京城から鉄道で釜山に行き、釜山から船でようやく博多へと足を踏み入れるも、擁子たちを待っていたのは敗戦で猜疑心の塊となっていた日本人の冷たさと、いつまでたっても父と兄の消息が知れないという絶望だった。そんな中、母は擁子と好に、故郷である青森ではなく、京都へ行くことを告げる。理由は、京都は空襲を逃れた数少ない都市のひとつであり、娘たちに十分な教育を受けさせられると考えたからだ。気乗りしない擁子たちだったが、やがて母の強い意志に従い、京都にて就学。駅で寝泊まりしながら、近くの料理店裏手のゴミ箱から食べられるものを探しつつ糊口を凌ぐという生活が始まった。

擁子は学校で同級生から「ボロ人形」と揶揄されるも、仲良くなった用務員の内藤さんから捨てられた紙や鉛筆、消しゴムなどの文房具をもらい勉学に励む。好も、洋裁の才が評価され、報酬は微々たるものだったが仕事を請け負うようになった。徐々にではあるが生活が上向きかけてきた最中、最愛の母が京都駅構内で死去。一旦ひとりで青森に行き親族の消息を探って戻ってきた矢先のことだった。無力感にむせび泣く擁子であったが、いつも遅くまで外にいて母の死に目に会えなかった好に対する不信感を募らせていく。妹である擁子に対して威張っている態度もさることながら、母に不孝をもたらしたことは絶対に許せなかったのだ。

その後、親切な女性との出会いにより、市電近くの倉庫を借りて生活するようになるが、擁子の好に対する不信は消えなかった。だが、ここから感動のエピソードが怒濤のように生まれる。好がいつも遅くに帰ってくる理由はもちろん、母が臨終に際し風呂敷を大事にしなさいと擁子に告げた理由、松村伍長との劇的な再会、そしてもはや消息を諦めかけていた兄との運命的な再会。このくだりを帰宅途中の電車内で読んでいた私は、こみあげてくるものを必死で抑え、溢れ出んとする涙をなんとか堪えたものだった。

こうした戦争体験記を読むたび、「いまの私はいかに平和で豊かな生活をしているか」を実感するのだが、同時に、これほど偽善的な感想もないと自戒するのである。なぜなら、この本を読んだからといって明日から節度を改め禁欲的な生活をしようとすることもなく、しばらくしてしまえば元の飽食の現在が当然のものと思い込むようになる。そして、数ヶ月後に類書に触れた際に同じ思いを抱く。これの繰り返し。たしかに、時代に則さない生活を営むことは逆に生きづらさを感じてしまうし、周囲と歩調を合わせることも難しくなるだろう。「馴らされてしまう」というのが正解かもしれないし、見方によってはそうすることが現代を生きる上でもっとも賢いやり方なのかもしれない。だが、そんな中でも忘れてはいけないのは、「過去があるから現在がある」「歴史があってこそ国がある」という事実。たとえすぐに忘れるとしても、ほんの一瞬でも共感したり感動したりすること。こうした強い感情の動きというのは、不思議なことにある時ふっと沸き出てくるものだ。困っている人や悩んでいる人を見かけたとき、果たして自分はどういう思いを抱き、またどういう行動に出るのか。そうしたときに今回のような読書体験が無意識のうちに私を突き動かすのではないかという思いを新たにした。

なお、本書に記述されていることに対して、現代の韓国人が顔を真っ赤にして批判しているようだが、まったくの筋違いである。彼らの精神構造には日本悪玉論が徹底して染み込んでいるため、臆面もなく日本を名指し「歴史を忘れた民族に未来はない」などと声を荒げているが、果たして彼ら自身は自らの国の歴史を直視しているのだろうか。本書には、朝鮮人が日本人女性を強姦するシーンが随所に描かれているが、その一面だけを殊更に取り上げて全体をかき消そうとする韓国人の姿勢に首を傾げざるを得ない。他国が犯した一部の過ちだけを大々的に持ち上げ、自らの暗部はひたすら糊塗しようとする。こうした民族にこそ、未来はないと言いきれるのではないだろうか。翻って、いま日本では、若い世代を中心に近現代史を自発的に学ぼうとする人たちが増えている。真実の歴史を受け入れつつある日本と、捏造の歴史にまみれた韓国。どちらの国の未来が明るいかは自ずと明らかであろう。


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