昨年12月の総選挙で政権を奪回すると、続く参議院選挙でも圧勝した安倍自民党。これにより安定した政権運営が確実となり、安倍総理が総選挙前から訴え続けてきた「憲法改正」が現実味を帯びてきた。戦後レジームからの脱却を旗印に、その「戦後」の象徴とも言える日本国憲法を改正しようという動きであるが、安倍自民党が案出した改正憲法案(ならびに産経新聞案)に待ったをかけた人物がいる。その人物こそ、本書の著者である倉山満氏だ。「日本国憲法とはマッカーサーによる落書きであって、その落書きを不磨の大典のごとき押し戴きつつ、その実さまざまな解釈が加えられて既にメチャメチャな状態にあるにも関わらず、いまさら条文をいじる必要なんてあるの?」と、いつもの倉山節全開で昨今の不毛な憲法改正論議に一石を投じる。
倉山氏は、「憲法とは、菅直人が首相でも国が破滅しないようなものでないといけない」ということを全編にわたって訴える。「菅直人が首相でも」ということは、どんなに無能で暴虐な人物が国政のトップに立ってしまったとしても、緊急事態に対処できる規定が憲法に書かれていなければならないということだ。これを言い換えれば、現在の憲法(倉山氏は当用憲法と呼ぶ)にはそうした規定がないということ。かつて大日本帝国憲法には、テロや災害などの有事の際、天皇陛下が御聖断を下せる規定があったが、現行憲法にはそれがない。この現状を倉山氏はもっとも憂慮しており、ちまちまとたいして変わり映えもしないくせに条文を書き換えている場合ではないと口角泡を飛ばす。なぜなら、現行のままでは、あの東日本大震災のどさくさの中、首相の地位にあった菅直人はさらなる亡国的指示を下すことができてしまったのだから。
本編では、天皇をはじめ、人権、議会、内閣、司法、財政といった切り口から自民党改憲案をぶった切るが、なにも倉山氏は個人的な感情で偏屈を言っているわけではない。「憲法とは国の姿を明確にした統治の規範であり、変わらない原則だけを書くもの」という憲法の大原則に立って論じているのであり、そもそも緊急時に誰が国を守るのかが明確にされておらず、また都合のいいようにコロコロ解釈して使い回されているだけの憲法など無用だと訴えているのだ。さらに、GHQに押しつけられた現行憲法を唯々諾々と押し戴いているのが恥なら、その条文を改正することは恥の上塗りだとも付け加える。要するに、こんな憲法論議ではいつまでたっても戦後レジームからの脱却などできないということである。
今回は、新聞やニュースを賑わす、いわゆる「憲法改正」にスポットが当てられているため、その可否について断が下されているものでない。マスコミでは改憲派と護憲派とで二分された論議ばかりが目立つが、その傍らに自主憲法制定派、帝国憲法復古派が存在することも忘れてはならない。憲法とは体現したものであり、その国柄を守る規定を明文化したのが憲法。いまの憲法が米国製とすれば日本の国柄を映したものとは必ずしも言えないということになるので、後者ふたつの論派が注目されてしかるべきであろう。さすがに帝国憲法をそのまま流用することは時代にそぐわないが、日本の伝統、文化、歴史に根ざした本来の姿を体現した新しい憲法ができれば、そもそも菅直人が首相になることなどあり得ないと言い切れるのではないだろうか。