帝国興亡の掟 中華帝国とローマ帝国に見る世界帝国の野望と失意

黄文雄

・ローマ帝国は、共和制時代も帝政時代も、その強力な軍事力に支えられていた。力によって周辺の蛮族を征服し、ローマの富を築いていったのである。一方、秦・漢帝国はその逆であった。たしかに、秦は征戦によって中国を統一し、対外戦争を繰り返すことで国土を拡大したが、内乱によって滅んでしまった。漢も武帝の対外征戦によって国家財政が破綻、人々は苛斂誅求によって貧困化してしまう。

・中華帝国は対外征戦を繰り返しながら植民地に移民を移していたのだが、内から外への拡散現象はやがて中国の内部分裂を引き起こした。さらに、外来の夷狄が中国内部に移住または侵入したことが動乱の原因となった。ローマ帝国は奴隷制を持つ一方で、内乱を怖れて敗戦国の人々にローマ市民権を与えていた。繁栄するにつれて人々は享楽に耽る一方、だんだんと少子化傾向になっていった。すると必然的にローマ市民として異邦人が占める割合が高くなり、ついにはローマ市民の四分の三が解放奴隷の後裔となった。ローマは内部から徐々に変質していき、やがて衰亡を迎える。

・中華帝国の最大のシンボルは、一君万民の皇帝制、唯一絶対の皇帝、そして天に代わって万民を統率する天子という名目的有徳者だ。一方、ローマ帝国のシンボルは、万民法、法治の原理、パックス・ロマーナだ。

・中華世界では、戦国時代、統一帝国時代、中央集権時代、分裂と崩壊の時代といった具合に流れており、西欧世界でも同様に流れている。

・中華帝国とビザンティン帝国(東ローマ帝国)との大きな違いは、やはり首都の絶対化であった。コンスタンティノープルは西洋と東洋にまたがる諸民族文明の往来の地であり、世界の中心として揺るぎない地位を保っていた。中華歴代王朝の版図は、王朝の盛衰によって激変し、一定の領土や国境などなかった。

・ローマは一小都市から興り、次第に地中海世界をその支配下に収めていき、キリスト教をもって全ヨーロッパのあらゆる異民族、異教徒を征服していった。一方、中華世界は中原から興り、秦というローマ型国家が天下を統一した。人治を政治原理とし、法治を原理とするローマ法とは正反対であり、儒教・漢字文化圏以外に発展することはなかった。

このように、本書では中華帝国と東西ローマ帝国を軸に、世界史における大帝国がいかにして興り、繁栄し、衰退し、そして滅亡していくかを、文明論や国家論、政治・経済・地政学・思想といったさまざまな側面から紐解いていく。著者の黄文雄氏は、「人類史の中で国家の興亡や民族の盛衰は、同一の文化圏や文明圏内で並立、鼎立、分立、ときには大統一、王朝交替を繰り返し、さらには文化摩擦、文明衝突を引き起こすのである。ユーラシア大陸の諸文明における栄枯、民族の盛衰の歴史の中で、中華帝国とローマ帝国の興亡の歴史はきわめて対照的である」と結ぶ。かなりボリュームがあり読みづらい箇所もあったが、中華・ローマ両帝国のみならず、モンゴル帝国やロシア帝国との関わりについても言及されていることからも、世界史を「帝国」という枠で捉えるといった意味で有意義だと言えよう。


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