幻庵 下

百田尚樹

服部立徹改め井上安節は、寺社奉行から井上家家督相続を認可され、十世井上因碩を名乗った。因碩(のちの幻庵)は、最大最強のライバルである本因坊丈和と家元の誇りを懸け、激しい碁を繰り広げていく。江戸の碁好きを唸らせる両者の対局は、毎回大勢の観衆が押し寄せ、刀と刀が切り結ぶがごとき一手一手に誰もが息を巻いた。そんな中、丈和はある決意を胸に抱く。それは、囲碁界最強の打ち手の称号である「名人碁所」になることだ。この年、丈和は40歳。自分にはあまり時間は残されていない、名人を目指すならこの3年が勝負でそれを過ぎると因碩には勝てなくなるかもしれないと気が急く。一方、同じく名人碁所を狙う因碩は、本因坊家の当主となり八段半名人となった丈和に焦りを抱く。時に文政11年、長い間、権謀術数と無縁であった碁界は、名人碁所をめぐって4つの家元が巻き込まれていくことになる。林家の当主である林元美を抱き込み着々と準備を進めてきた丈和は、ついに本因坊察元以来、62年ぶりとなる名人碁所就位の願書を寺社奉行に提出。これに対し、因碩は義父の服部因淑と相談したうえで、安井仙知を後ろ盾とし八段昇進を推挙してもらい、丈和の碁所就位を阻止しようとする。丈和との争碁で勝てば丈和の就位を阻めるだけでなく、自らが名人碁所になる可能性も出てくる。だが、丈和は因碩との対局をのらりくらりとかわすばかり。そして、天保2年、丈和は名人碁所に就位する。名人碁所は終身の地位。因碩は歯噛みして悔しがった。

名人碁所になるには、丈和が死ぬか退隠するほかない。たとえそうなったとしても、年齢的に他者を圧倒する碁は打てなくなっているだろう。因碩は自分にそう言い聞かせるしかなかった。ちょうどその頃、日本列島に接触を試みる外国船が多く出没したことで危機感を覚えた幕府が異国船打払令を出したり、天保の大飢饉により全国で何十万人という餓死者が出たりして世上を揺るがしていた。因碩は何か世の中が大きく変わっていく予感がしており、自分自身に対しても何らかの大きな転機が訪れていることを肌で感じていた。それは幼少の頃からうち続けてきた碁を辞めることなのか、果たして……。しかし、因碩の運命は囲碁を見捨てることはなかった。手塩にかけて育ててきた弟子の赤星因徹が、丈和に打ち勝てば退隠を迫ることができ、敬愛する師匠、因碩を念願の碁所に推挙できると立ち上がる。因徹は七段だが、因碩さえもたびたび負かされるほど強烈な打ち手であり、丈和に対しても引けを取らない。入神の域に達したとされる丈和と、彗星のごときインパクトを持った因徹。両者の対局は家元の秘技をも絡めた壮絶な碁となり、何度かの打ち掛けを挟み、数日に及んだ。碁は因徹優位で進んでいくが、因徹は蒲柳の質。激戦が因徹の体を蝕んでいく。

私は囲碁をやったことがなく、本書に触れるまで囲碁のルールなどひとつも知らなかった。さらに言うと、読了した後でもルールはもちろん用語すら、ほとんど頭に入らなかった。そんな中でも、本書を文字通り手に汗握りながら読み進めていくことができた。それは、対局における一手一手の描写の巧により、研ぎ澄まされた刀のような鍔迫り合いが迫力いっぱいに伝わってきたからだ。達人が妙手を打つと、「何だその手は!」「何手先まで読んだ手なんだ?」と言わんばかり、劇画チックな状況が浮かんできて、思わず碁盤が侍同士の戦場に見えてしまう。加えて、名人碁所をめぐる人間模様、丈和と因碩を襲う運命は実に数奇であり、両者とも大いに共感できた。囲碁はわからないからと見向きもしない人にこそ、手に取ってもらいたい作品だ。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です