海辺の小さな町にある理髪店。時代遅れの洋風造りの民家を改装したと思わる店内は、古びた外観を裏切るたたずまいで、清潔で整然としている。浮かし模様のある白い壁紙はアイロンを当てる前の洗いたてのシーツのようで、よく磨かれたダークブラウンの床はスケートリンクにも使えそうだ。ラベルの向きがきちんと揃えられた薬剤の容器が、完璧主義の演出家に立ち位置を決められた舞台役者に見えた。椅子に座ると、この理髪店が誇るスペクタクルに直面する。目の前の大きな鏡いっぱいに広がる海。秋の午後の水色の空と、深い藍色の海。右から左へ海鳥が横切っていく姿がなければ、100号の風景画を飾った額のようだ。「鏡、気に入っていただけましたか。どうぞ楽しんでやってください」。高校を卒業してからは美容院でカットするようになって以来、理髪店を利用することはなくなった。そんな主人公に対して、初めは無愛想に思えた店主が、頭皮に熱い蒸しタオルを押し付けてくるなり、静かだが深い味わいのある口調で語りかけてくる。「転機に髪を切るのは女性の専売特許ではなくて、男も同じだと」「男の髪というのは、仕事の柄によって変えるべきだと思うのです」。仕上がりは店主に任せることにした。そして、店主は自らの人生を語り出す。
短くぶつ切りにされた言葉の断片が無造作に散りばめられているようでいて、とても自然な配置で紡ぎ出されており読んでいて大変心地よい。初めて荻原浩氏の作品を読んだが、本書に収録されている短編一つひとつからは、まるで秋の昼下がり、落ち葉が風にサーっと乾いた音を立てながら飛ばされていくような、森閑としつつも味わい深い余韻が残った。コピーライターという経歴からも納得だ。表題作の「海の見える理髪店」のほか、父の形見の腕時計を介して時計店の店主と語らう「時のない時計」、中年夫婦が亡き一人娘の晴れ舞台に立とうとする「成人式」には特に心打たれた。氏の作品をもっと読んでみたいと感じた。