誕生日に家出をし東京から西へと向かう15歳の少年、田中カフカ。バッグに詰めたのは当座の現金とサバイバルグッズ、そして小さい頃姉と一緒に写った写真。思い出は実家にすべて置いてきた。愛情の欠片もない父親や、ずっと前に家を出た母と姉。彼には「いってきます」と別れを告げる相手すらいなかったから。四国行きのバスの中ではさくらという同年代の少女、ひょんなことから逗留することとなった高松の図書館では佐伯さんという50代の女性と出会う。
一方、戦時中の疎開先で原因不明の症例により記憶と読み書きの能力を失った60代の男性、ナカタさん。周りから誰にも相手にされずとも、人を疑うことを知らない真っ正直な性格と、猫と会話ができる特性により、日々平和に生活していた。そんな中、迷子になった猫を探す中で、ジョニー・ウォーカーと名乗る男性と出会い彼を殺害してしまう。その後、西へ向かって「入口の石」を探し出すという啓示を受け、ヒッチハイクを重ねて高松へと到着する。
映画、文学、音楽、セックス、そして作品中に漂う虚無感、無国籍性、緊張感のなさ、「たぶん」という台詞に代表される不確実性。これらはいずれも村上作品に通底している概念であり、僕が学生時代に取り憑かれたように読み倒した根拠でもある。では、村上作品の良さとは何だろう。おそらく、わかったようでわからない、伝わったようで掴み取れない、シンボリックでメタフォリックな世界観ではないだろうか。学生時代の僕はそれこそが芸術の神髄であるとして、その「よくわからないけどカッコいい」文体に陶酔していたんだと思う。事実、実利を重んじる社会人となってから村上作品には一切手を付けなくなってしまった。それで、大学を卒業して10年以上経過して手に取った今作品だが、正直な感想を言うとやはり「よくわからなかった」。
父を殺して母と交わるというエディプスコンプレックスを下地に、カフカ少年はその願望ゆえから父(ジョニー・ウォーカー)を間接的(直接?)に殺し、母と思しき佐伯さんと図書館の一室で交わる。そしてラストでは、暗示的に登場するカラスと呼ばれる少年が、カフカ少年に「君はほんものの世界でいちばんタフな15歳の少年だ」とささやく。
こうしたフロイト的な自己実現に加え、さまざまな隠喩的エピソードが織り交ぜられているが、これ以上は僕の手に負えなそうだ。だが、ひとつだけ強く感じ取ったことは、父を殺し母を犯し、その上で生まれてきた子が自分自身だったとしたら。生理学的におかしいだろうが、もう取り戻せない憧憬の過去を征服(近親相姦)することで「世界でいちばんタフな15歳の少年」に生まれ変わることだって考えられるのではないだろうか。
おそらく僕の指摘は的外れに違いない。だがその的外れこそ許されるのが村上文学であり、彼の作品に触れる醍醐味でもある。それに、こうした「よくわからない」体験というのは、ふとしたタイミングで現実とシンクロするものであるわけだから、そのときには軽い微笑みと一緒に心地よいデジャブを楽しめればいいではないか。ぜひ読んでほしいとは言わない。きっと、いや絶対「よくわからない」だろうから。