幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

岸見一郎、古賀史健

前作「嫌われる勇気」から3年。青年は再び哲人と対峙する。中学校の教職を得た青年は、アドラーの思想に基づく「ほめてはいけない、叱ってもいけない」ことを教育方針に掲げ実践するが、それは机上の空論でしかなかったと激怒。生徒たちの自主性を尊重したはずだったが、結果的に彼らを野放しにすることとなってしまった。そのため、教室は荒れてしまい、やむなく教師としての威厳を示すことになったという。アドラーに失望した青年は「アドラーを捨てるか否か」を哲人に詰め寄る。哲人は、アドラーの思想に触れ「生きることが楽になった」と思うならそれはアドラーを大きく誤解しているとし、アドラーの理解を深めるには「愛」が必要と諭す。ありきたりな抽象論だと笑い飛ばす青年に、哲人は、青年がアドラー心理学に基づく実践をしたものの挫かれ引き返そうとしているのは「人生における最大の選択」をしていないからだと畳み掛ける。そして、その選択こそが「愛」なのだと伝える。ここから哲人と青年との対話が始まる。

アドラー心理学に「課題の分離」というキーワードがある。これは「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けるということで、他者からの評価や承認も求めず、さらには他者の課題に介入することも自分の課題に他者を介入させてもいけないという考え方だ。これができれば対人関係の悩みはかなり軽減されるとする。教育の現場に置き換えると、教育とは「介入」ではなく生徒の自立に向けた「援助」となる。すなわち、他者がいて社会(学校)があり、そうした共同体の中で自分の居場所を見出すこと、人間の本性を知り人間としての在り方を理解する「人間知」を養う場こそが教育の本懐だ。強制的な意図を伴う介入では、生徒の自立は促せない。これは「共同体感覚」という概念にも通じ、自己への執着から逃れ他者の関心事に関心を寄せることで、あらゆる人間関係で求められる尊敬の具体的な一歩を踏み出すことができる。したがって、生徒に対する教師の立場というのは、学業を垂範する立場ではなく、対等な関係で彼らの関心事に心を寄せ、尊敬されているということを実感させる立場にあるべきということになる。

哲人と青年の対話は続く。幸せになるためには、対人関係の中に踏み込んでいかなければならない。アドラーは、誰かの役に立っていると思えたときにだけ自らの価値を実感することができるとする「貢献感」を語っている。この考え方がアドラーの「愛」に対する態度の根底となっていて、愛によって「わたし」だった人生の主語が「わたしたち」に変わるとする。愛とは、利己的でも利他的でもない、ふたりで成し遂げる課題であり、自己中心性からの脱却、つまり自立を果たすことができるものである。たったふたりから始まった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類にまでその範囲を広げていく。どんな独裁者でも尊敬を強要することができないのと同じように、愛を強要することもできない。本書は、幸せになること、つまり「愛」を知るための教導書としてつねに側においておきたい一冊だ。


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