モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝

マイケル・バー゠ゾウハー、ニシム・ミシャル

イスラエルの諜報機関モサド。国外での秘密情報収集や破壊工作活動、時には外交の裏方を務めることもあり、欧米の多くの情報組織が通信傍受や衛星写真などに重きを置く時代に、いまだ旧来のスパイ活動による情報収集を続けている。これがモサドの最大の特徴であり強みでもある。2000人程度の人員のほか、世界中に散らばったユダヤ人協力者(サイアニム)からの情報を得て活動を行っており、その能力は世界でも指折りのものだと評価されている。創設以来、主にレバノン、シリア、イラン、イラクといったアラブ諸国にて、地図上からイスラエルという国を消滅させようとする過激派テロリストと、文字通りの暗闘を繰り広げてきた。モサドの無名戦士たちは、身命を捨てる覚悟で家族と離れて偽りの身分で暮らし、ほんのわずかなミスが逮捕か拷問か死につながる敵国で大胆な作戦を実行する。ソ連やアメリカ、イギリス、東ドイツの諜報員は、困難な事態になっても必ず母国に連れ戻してもらえることを知っていた。だが、彼らには交換される諜報員はいない。祖国に対する理想主義的な深い愛情、国を生存させるための自己犠牲心、究極の危険に直面する覚悟を胸に、彼らはいまも世界各地で闘い続けている。

凄まじい嵐の中、ガザ地区の海岸線にボロ船が押し寄せ数人の“パレスチナ人”が陸へと向かっていた。背後からのイスラエル船艇による追撃を振り切った彼らは、辺りを拠点とするテロリストグループと合流し、その指揮官と会うこととなった。指揮官らと握手を交わした彼らのうち、ひとりが手を上げて腕時計を見た。これを合図に、彼らは指揮官らを射殺し、人で込み合うガザ地区の通りを抜け、イスラエル領へと入った。この作戦の中心人物だったメイル・ダガン大尉は、のちにモサドの長官となる伝説の戦士だ。その後、ダガン率いるモサドは、イスラエル最大の脅威ともいうべきイランの核開発阻止へと動く。二重スパイ、襲撃チーム、破壊工作員、ダミー会社などの攻撃部隊を次々と育て、技術者を爆弾や毒で排除し、また地下核施設への無人機による攻撃は記憶に新しい。イランに爆弾製造の原料を入手させない、自由世界の銀行にイランとの取引をさせない、政治不安を煽り反政府組織を支援し、イランの少数民族を分断することにより政権を交代させる。こうした成果によりイランの核計画を遅らせてきた。もちろん、モサドの任務は対イランに限らない。

イスラエル建国の事情により、もともとその地に住んでいたパレスチナ人をはじめ、聖地を異教徒に奪われたアラブ諸国からの脅威につねに晒されている。そのイスラエルを守るべく、モサドの諜報員たちはバグダッドやテヘラン、ダマスカスといった敵地に自ら乗り込んで脅威を排除しようと暗躍する。彼らは偽りのパスポート、国籍で身分を変えることで現地人に溶け込んで政府要人と接触し、重要情報を本国へと送り数度の中東戦争を有利に運んだ。危険人物は爆弾、毒、ハニートラップなどを用いて容赦なく殺害し、舌を巻くような素早さで出国して難を逃れる。だが、すべての任務を必ず成功させてきたわけではない。スパイ活動がばれダマスカスの広場で公開処刑された者もいる。モサドの敵もまた手練なのだ。そのほか、アルゼンチンに逃げたアイヒマンの追跡、イスラエル国内の宗教対立の裏で失踪した子供の捜索、ソ連製ミグ21の奪取、シリアやアフリカのユダヤ人移送など、モサドの任務の範囲は常人からは逸脱した次元にまで行きわたっている。

言うまでもなく本書は第一級のノンフィクションであり、最高級にスリリングな読み物だ。だが、単なるスパイ娯楽として本を閉じてしまうのはあまりに芸がなさすぎる。その点、防衛研究所主任研究官の小谷賢氏による解説が示唆に富む。「モサドの数々のミッションを通じて我々が学べるのは、インテリジェンスそのものの重要性と、それが国益や国家の安全保障に直結しているという事実である。基本的にインテリジェンスとは国の情報活動や情報そのものを指すが、広義には『国家の知性』のことである。つまり、インテリジェンスとは、国際社会において国家が生存していくために必要な、情報収集能力や分析能力、また分析した情報を活かすための機能を意味する」。日本にはモサドのような対外諜報機関はない。隣国を敵に囲まれ最強の諜報機関を創り上げたイスラエル、隣国から妨害を受け続けても憲法ひとつ変えられない日本。インテリジェンスを磨かないことには国家の存続が危ぶまれることに、私たち日本人はいまこそ気づかなければならない。


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